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どこかに正答があると思って,その正答を言い当てることばかりを気にしている

 学生が「どこかに正答があると思って,その正答を言い当てることばかりを気にしているので,知識への接し方がどうしても受身になってしまう」と,里見先生が2001年に書いたことは,今でも残念ながら同じだ。むしろ強まっている気さえする。学生の生徒化,大学の学校化がより一層進んでしまった。

「学生たちは,教科書に書かれていることが知識だ,と思い込んでいます。自分の知識があるとすれば,それは教科書に書かれた知識の不完全なコピーにすぎないのであって,それをどれだけ教科書の知識と正確に重なりあうものにしていくかが,学習の課題であると考えています。それは今日の社会の支配的な学習観でもあります。そういう学習観にたって本を読みますから,読書は苦痛になっても,歓びにはなりません。
 最近の大学生はおどろくほど本を読まないのですが,学校教育のなかで育てられた学習習慣が一つの要因になって,本嫌いになっているのではないでしょうか。自分で考えを組み立てたり,それを吟味することも苦手です。どこかに正答があると思って,その正答を言い当てることばかりを気にしているので,知識への接し方がどうしても受身になってしまうのです。
 知識というものは,属人的なものです。それは私の知識であったり,あなたの知識であって,つまり,私やあなたという固有の人格と結びついた知識なのであって,誰のものでもない,人間に超越した客体ではないのです。学習とは,そうした『自分の知識』を作り出している営みです。モノやコトとの,そして本との交渉を通して自分の世界を構築していく,すぐれて構成的な行為です。権威づけられた知識を外から取り込んで空洞の自我を満たしていく,そういう受身の行為ではありえないはずなのです」(里見実『学ぶことを学ぶ』太郎次郎社,2001年,130頁)。

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