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ふうさんからのメール

今日もふうさんから、
とても深い内容のメールをいただきましたので、
シェアさせていただきます。

頻繁にやり取りしていたときには、
このようなメールが1日に2通、3通、多いときには、5通くらい来たことがありました(笑)。

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yamapon様

T-27.VIII 「夢の「主人公」」をざっと読みました。

いかにも、ワプニック博士はこのセクションを「下敷き」にしたであろうことがとてもよく感じられる内容でした。

ただし、これ、ある潜在的な意識状態で体験されている状況を、はっきりとした言葉で描写している、という印象です。

これ、例えば第2段落とか、第3段落の冒頭とかはとりわけ、世界で起きていることや人生そのものを、ある意味で俯瞰する視点です。

俯瞰する視点は、この世界の感覚としては、とてもディープな位置として自覚されます。

(「ホムンクルスの小人」を参照すれば、自分の「足元」は、実は自分の頭上より「高い」ところにあるんですよね)

脳の中のこびと (chubu-gu.ac.jp)

第4回「脳の中のこびと」 | 医療法人ひまわり会 札樽病院 (sasson-hospital.jp)

で、実際に私も、目の前で話している人の肉体が、本当に「ただの肉体」としか感じられなくなったことがありましたし。

「夢の中の人影」というのは、自分がそれらの肉体として投影した、自分の心の中の、ある役割のことです。

こうしたことは、私は実際に感じたことに基づいて話しています。

実際に、この世界とは自分が投影したものだという感覚が感じられたことがあるので。

ただし私の場合は、肉眼で見えるものはごく普通のままです。

こうしたことは、この世界が物理的にも消えて、ただ光だけが存在している状態を実際に体験した人もいたりしますが、私は幸か不幸か(笑)、そうした超常的体験はしたことがありません。

ですが、そうしたところからこのくだりを読むと、この描写にはとても「リアリティ」があるわけです。

ただ、何度も読み返しましたが、ここもやはり、物理的にも夢だというレベルと、自分の解釈は夢だというレベルとを、どうやら区別する必要がありそうです。

これがどれほど「癒着」しているかというのは、例えば、世界には問題が山積しているというのは、人は普通に思うわけですが、「問題が山積している世界」というのが、解釈による世界であり、それは、世界そのものとは別なんです。

これは、レッスン14,15辺りで練習します。

例えば、自分が「飛行機事故」として知覚する出来事自体は確かに生じていたとしても、それに対して「飛行機事故」という知覚を投影しているのは自分です。

これが、ワプニック博士もまた、レベル1と2として区別していることです。

つまり自分は、ありのままの出来事ではなく、出来事に対する自分の解釈の方がリアルだと信じている、というのは、例えばこうしたことです。

空き缶をごみ箱に捨てるということでも、もはや「空き缶をごみ箱に捨てる」という解釈の方がリアルであり、そこで実際に起きていることと自分とは、自分の解釈世界によって隔てられています。

これが、言葉によって記述することの、一つの限界です。

なぜならば、そこでありのままに起きていることをそのまま言葉で描写することは不可能だからです。

描写しようとする時点で、すでに何らかの解釈を通っていますから。

こうした事情が、マグリットの描く絵画で、こういうことになっているわけです。

【作品解説】ルネ・マグリット「イメージの裏切り」 - Artpedia アートペディア/ 近現代美術の百科事典・データベース

つまり、私たちがパイプについて語ることはすべて、ただ自分の中のイメージのパイプについてのことにすぎません。

それはパイプそのものではありません。

ですが、「パイプ」という言葉では、それを区別することができません。

さらに言うと、自分にとってのパイプとは、あるがままのパイプそのものではなく、そのパイプにまつわる自分の記憶の集積もまた、そのパイプとして同時に知覚しています。

ですから、特定の事物を見ると嫌な気持ちになったりするのも、自分はその事物そのものではなく、その事物にまつわる自分の記憶の方を見ているからです。

このセクションのような個所はとても微妙なので、とりわけ、こうしたことを背景に踏まえて読む必要があるわけです。

で、例えば「人生もまた夢だ」ということと、「今ここ」のリアリティとは、実は、次元が全く異なっています。

「今ここ」は、「人生という夢の中のワンシーン」などでは決してありませんが、ただ、自分は「「今ここ」もまた「夢の中のワンシーン」に過ぎない」という夢の中にいます。

ですからこれは厳密に言うと、リアリティ、あるいは実相、現実、が一種の「夢化」しているような状態だということができるのかもしれません。

ですから、現実もまた夢の一つとしかとらえられていませんから、それは自分の無意識そのものになっていますが、普段はそれがまさに現実だと知覚しています。

言ってみれば、自分は一種の「夢遊病」に入り込んでいるようなものです。

ここから覚めることが、例えば「彼らをありのままに見た瞬間」(T-27.VIII.4:5)とかですね。

そうすると、自分は今まで自分がどっぷりとはまっていた夢から、ごくわずかだけ覚めます。

このように綿密に読み解いていくと、ここに書かれていることは、ディープな夢にすっかりはまり込んでいる状態から少しずつ目覚めていくプロセスについての描写である、と捉えることができます。

自分の人生という夢の中での「主人公」としての自分は、ある幻想の「役割」を持っていたり、「使命」を担っているかのように感じたりしますが、そうしたことはすべて幻想であり、「今ここ」の現実には、そうしたものは一切存在していません。

ですが、この、「「今ここ」の現実には、そうしたものは一切存在していない」ということが、普段の自分の意識状態だと、完全に潜在化している、言い換えると、夢の中にすっかり埋没してしまっていますよね。

それが、「「今ここ」ですらも、「人生という夢の中のワンシーン」でしかない」として捉えられている状態のことです。

「自分が行った自分自身に対する攻撃」(T-27.VIII.5:4)というのが、自分が、一種のPTSDとしての夢遊病の中に入り込むきっかけです。

子どもの時には、実際に、「こうした世界を実在するものとして思いつくこともできなかった」(T-27.VIII.5:5)状態だったことは、もうすっかり忘れ去られていますしね。

もちろんこれはかなり「低い」段階のことであり、究極的には、物理的世界自体が実在化する以前のことだということになりますが。

こうした世界、それは例えば、「肉体は、そうしたものを得るために仕事をし、無意味なことを行い、そうして手に入れたものをまた自らが必要としてもいなければほしくもない無意味なもののために投げ捨てる」(T-27.VIII.2:3)ような世界ですが、こうした世界なんて、実際、子供の時には思いつくこともできなかったのでは。

ですからこれは、「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコによる福音書、10.15)ということと、取り立てて矛盾しているわけではない、ということが、こうして書いているうちに少しずつ分かってきました。

そうすると、このセクションでは、夢から少しずつ覚めていく時の様子についての描写であることが分かってきます。

そして、「これが認識されたとき、あなたはこの世界をどれほど異なったやり方で知覚するようになることだろう!」(T-27.VIII.13:1)というのは、誤解の余地なくこれは、世界をありのままに見るようになったときの様子なわけです。

T-28.II 「原因と結果の逆転」に関しても、同様のプロセスが見て取れます。

初めは、すべては「ただの夢」であるという段階から始まります。

で、自分は夢を選択できる(T-28.II.4:3)ということを奇跡は教えてくれます。

そうすると、幸せな夢を見るという選択の可能性に対して心が開かれます。

その中、つまり幸せなゆるあるいは赦しの夢、の中で、自分は次第に夢から覚めていきます。

そして、「聖霊の赦しの夢」(T-28.II.10:3)の段階では、個人的な夢は取り消されていき、例えば、「憎んでいた敵が好意ある友として知覚される」(T-28.II.10:3)といったことも起きると書かれています。

そうすると、「今や、あなたは次の部分だけは夢から自由になっている」(T-28.II.10:6)、つまり、この段階では、たとえ部分的にではあれ、夢から自由になり始めるわけです。

そして、「この世界は奇跡に満ちている」(T-28.II.12:1)となります。

これは、悪夢の領域から完全に脱出したために、一つ一つの悪夢が自分とは別のものとして描写されていて、そしてその傍らに、奇跡が静けさの中で輝いている(T-28.II.12:2)わけです。

奇跡は「dream's alternative」であると原文では書かれていますが、これが公認訳では「夢に代わるもう一方の選択肢」と訳されています。

そしてそれはまた、「the choice to be the dreamer」である、つまり、「夢を見る者で居るという選択」のことだとも書かれています。

そしてそれは同時に、「自分が夢を作り出している上で果たしている積極的な役割を否定するのではなく」、つまり、夢の中の自分ということもまた、否定するわけではないようです。

言い換えると、自分とは夢を見ている者であると同時に、自分が見ている夢の中にも登場している、という自覚を持つ感じでしょうか。

これはいわば、メビウスの輪とかクラインの壷のような。意識の「高次元的ねじれ」構造が自分の中にあったことが自覚されることですね。

そして、T-28.III.4 では、夢を見ること自体の終わりについて、少し言及があります。

そうするとこの世界とは、いわば「思い出」のようなものだったと知覚されます(cf. T-28.III.7:4)。

で、T-28.IV.1:1 に、「自分自身に贖罪を受け入れる」とありますが、これ、実はここに登場しています。

「奇跡を行う者にとっての唯一の責任は、自分自身のために贖罪を受け入れることだけである」(T-2.V.5:1)

はい、これでめでたく円環が閉じましたね。

で、ここで面白いのが、ここです。

「恐ろしい夢がどんな形で現れようと、そうした夢の一部になることは拒否しなさい。それらの夢の中では、あなたはアイデンティティーを失うことになるからである」(T-28.IV.2:2)

これ、はるかな過去において、自分が夢の中にさまよいこむきっかけとなった出来事と同様のことが生じた時への対処法なんですね。

はるかな過去においては、自分はなすすべもなく夢の一部になり、自分のアイデンティティー、つまり自分は神の子であるということを失ってしまいましたが、今はもう別の選択ができるようになった、つまり、夢の一部になることを拒否することだというわけです。

ここはおそらく、再び輪廻の輪の中にさまよいこむきっかけ自体を二度と作らないこと、ということなんでしょうね。

というわけで、かなり一気にやってしまいましたが、この辺で送信しますね。

ではでは。

ふう


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