ウィリアム=シェイクスピア(大場建治訳)『ハムレット』(2010,研究社)

前 『越前敏弥の英文解釈講義』(2021,NHK出版)が取り扱っている『クリスマス・キャロル』の中にハムレットの父親の幽霊の話が出てくるのと、以前noteにウィリアム・シェーク。スピア(松岡和子訳)『リア王』を書いたからシェイクスピアでもいいかと思ったのである。

朝ドラの「ちむどんどん」の役者がアドリブをやりすぎて、原作軽視という批判があるが、ここに脚本家の口吻が表れていると思う。

ハムレット「・・それに道化役だが書いてある台詞以外はしゃべらせないでほしい。よくいるんだ、自分からげらげら吹くやつが。それでそこらあたりの知恵の足りない見物を笑わせようとする。大事な芝居の筋の方はそtっちのけにして、ひどい話じゃないかね、よくもまあ阿呆役が、阿保のくせに得意がって、あんな情けないことができるものだ。じゃそろそろ仕度にかかってくれ。」(134頁)

好き嫌いが分かれる翻訳だと思う。僕は好きでない。擬古文で訳してあって気取った感じがするし、擬古文なのに口語的仮名遣いで書いてあるのが何とも言えずチグハグしているからだ。たとえばどこでもよいのだが

ハムレットが劇中劇を見せつけて母とおじの悪事を再現して二人の所業を露わにしようとする場面。—

劇中王妃「日も月もその数の旅路をなお重ねても、

我らが傷は永久(とこしなえ)に。

されど転(うたて)しやな、そなたのこの頃、

昔日のご気色も失せては

憂わしき限り。限りと憂えてもそこは

女子(おなご)の憂い、どうかお心に掛けられますな、

深まる思いに恐れもつのる

思いも恐れも直面向(ひたあおもむ)きは女子の常なれば。

わが思いの深きはそなたもとくとご承知、

思いの丈はすなわち恐れの丈。・・」(143頁)

それと今回参照した訳本は松岡氏の訳ではない。だから読んだ印象が異なる。松岡氏の訳と異なり、訳注が一切ない。そのため読んでいるとこんな読み方でいいの?となる。特に性的なほのめかし表現かどうかよく分からないことがある。たとえば

「ハムレット 乳を吸う前にまず乳首に向かって最敬礼したってやつだ。・・」(252頁)。

意味は「やりたいことがあるなら早くやればいい」かもしれないが、「女を抱くんなら抱いちまえ」というニュアンスもこめらっれているかは分からない。

で、なんで訳注を載せないかというと、あとがきを読めばよく分かるように訳の説明はあとがきにおいてされていると考えられるからだ。でも果たして本当にそうだろうか。あとがきを見てもよく分からない。

で、訳注などがないのは、こういう意図があったからではないかと思われる。つまり挙げると

「本訳が場所の説明を一切廃したのはそのためである。読者は一人一人が演出家になったつもりで、あるいは俳優になったつもりで、自由な想像を楽しんで、本訳を読み進めていただきたい。」(274-275頁)

つまり、訳注がないのは自由な想像の余地を広く残すというお優しい親心から出たものと。でもこれは程度問題で、全くないのも困りますよ。


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