カズオ=イシグロ(土屋政雄訳)『クララとお日さま』(2021)

主人公は人工知能を搭載したロボットというので、新たな時代の小説かと思いきやこれまでの伝統的な文学の流れに位置づけられると思われるのだ。


お手伝いが見聞きしたことを語るというのは『嵐が丘』の家政婦ネリーを想起させる。そういう点で本作品はイギリス文学の系譜に位置づけられるのだ。英語原文を読むと、益々その思いを強くする。realizedであってrealisedではない、centerであってcentreでない、sidewalkであってpavementでないなど、イギリス人でも基本的にはアメリカナイズされた現代の作家だと思うのだが、Jane Austen"Pride and Prejudice"の書き出しをなぞっているのではないかと思われるところもある。

英語自体はそんなに難しいところはないが、get onやらget to it などよく分からないところがある。

イギリス文学とはいったが、この小 n説は普遍的にどこの国の作家でも妥当するメッセージが含まれていると思う。記憶力と観察力に基づいて小説は書くものだ。小説ではクララがすばらしい記憶力と高い学習意欲を備えた存在として誉めそやされているが、ロボットを持ち上げているようで、その実自分を褒めそやしている気がしてならない。

ここまで+とも-とも言えない感想が続いたが、ここからよく分からんというところ。

まずカフカ『変身』と同じく、結局主人公はどういう形をしているかということ。クララの身体的特徴が云々されているのは、クーティングズ・マシンを破壊するために溶液を取り出すところ。切開してどうのこうのを読むと、物置の窓から外を見るために台へ昇るという記述を踏まえると、人型ロボットかなと思う。でもジョジーの方が背が高くなったとかいう記述も踏まえると、即断はできない。

次に主人公のクララはお日さまを信仰しているといってよい位、お日さまを愛しているが、なんで聡明なのに、一種狂信じみた信仰が持てているのかということ。どっかでアレ、オカシイぞ、となるはずだ。信仰が揺らぐということがない。僕の読みに変なところはあるのだろうか。もしかしたら細かく読むと、必然として、お日さまに信仰を持つようになるのは当然だ、と納得させてくれる記述があるのかもしれない。

批判めいたこともいったが、読みやすいいい小説だと思う。ゲーテ『ファウスト』を最近読んで読みにくかったのでエンターテインメントになった。横線を引いて「なぜこういうことをしたのですか。/言ったのですか」という練習問題がたくさん作れそうである。


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