見出し画像

『先生』が苦手な理由

小学校時代

一番、古い思い出はもう40年以上前のことだが、鮮明に覚えている。
人生に影を落としたその瞬間も、加害者の名前も全部、覚えているというのだから人は、忘れない生き物なんだとつくづく思う。
一人の生徒から始まって、止めなければいけないはずの先生も加担した。
今なら大問題になっていると思うが、当時は緩かったんだね…と思わざるを得ない。
葬式ごっこの主導者が担任の先生では…
そりゃ、全校生徒までいじめが拡大するのも仕方あるまい。
机には、牛乳瓶に雑草・色紙に「タヒんでくれてありがとう」などのメッセージ付き。先生主導だから、子どもも同じ様にふざけて書く。
イジメの原因は、1年間に伸びた身長が原因。
それは自分でどうする事も出来ん。
足の高さの位置が他の子と20㎝位違ったという理由。
うちは両親が共働きだったので、それも原因になった。
子どものイジメなんて、理由は何だって良いんだよ。
理由が付けられたら。
小学校3.4年生の時の担任の先生から言われた言葉は今も忘れていない。
「あなたがタヒねば全国民中が祝福してくれる」なんて、言われたら、絶対的な存在だった時代に、苦悩しかない。
この担任の先生とは二十歳の時に地元でお会いしているが、その時にも「あら、まだ生きてたの?」と聞かれ、即答で「ババアこそ、まだ生きてんのかよ?」と返したらビビッて逃げて行きました。
弱い人間も女子高で揉まれたら逞しくなるでしょう(笑)
それに、二十歳。警備会社で鉄道警備の仕事をしており、おっさん勝り。
毒の一つでも吐き返せる位は、逞しかったと思う。
小学3.4年の時の社会科見学では、エスカレータの上から突き飛ばされたり、駅のホームから突き飛ばされたりと、悪い思い出しか残っていない。
エスカレータに再び乗れるようになるまで30年くらいかかったと思う。
小学5.6年生の時の担任の先生は、また憎々しい先生で。
よく頭の良い子と比較してくれていた。
「〇〇さんは頭が良いからK高校に行くけど、あなたはバカだから、Y高校にしか行けないね(笑)」←事実、相手はK高校へ進学し、私も同校へ進学したので、間違ってはいない。
高校に変わりはなかろう。
イジメられた原因、元の理由、身長。
それを、あなたも悪いからと言われたら、足を切れという事か?
学年主任の先生も高身長なのに、行動がゆっくりだったので、目の敵にしていたのは、気付いていたが、他クラスだったので、あまり関わらないようにしていた。差別的な発言が多々あり、学校という学校が大嫌いだった。
常に、ケガをさせられていて、文房具を盗まれてという状態であった。
小学校、高学年のとき、スケートリンクで突き飛ばされて、リンク上で頭を強打し、首の骨がズレるという大けがを負ったこともある。
この時は入院しなかったが、その前年に暴力が原因で怪我をして1カ月間、入院していた事は記憶に残っている。
何度もタヒのうと思ったが、出来なくて運命をずっと恨んでいた記憶がある。

学び舎Ⅰ

中学時代

他校との合同になるので、イジメは当然、広がる。
沈静化という言葉は先ずない。
どの先生も優等生という程に、この学年は一部を除き、優秀な生徒が多いと言っていたが、そのストレスのはけ口だったと思う。
どんなにイジメが常態化していても必死で食い止めようと、頑張ってくれた先生がいる。中学時代に別の中学校でイジメによる暴力事件で被害者がタヒする事件が起こった、その1週間後。
私自身が、ケガをさせられるという事件が起きた。
被害者・加害者の親と共に召喚で、学校長がキレるという事態になった。
当時は学校の先生もかなり神経質になっていたことも有り、大変なご立腹だったと記憶している。
加害者の親から言われたこと。
「うちの子の内申(書)が悪くなったらどうしてくれる!」
「変なものに憑りつかれているから除霊しましょう」
と、子が子なら親も親でした。
先生もその親たちの態度に激怒した。特に1年生の時の担任だったあおパチは「普通の生徒ならとっくにこの世にいないぞ!もし、キミたちのせいでそういう事になったら、どういう責任が取れるのか!!」と。
普通の生徒ではなかったのか。そうですね。
保健室登校の様な形で、放課後はクラブで当時は珍しいPCを触っていました。PCを触っている時間だけが、ホッとできる時間。
男子からも女子からもイジメられていたので、学校は苦しい場所一択だったのが、少しだけ楽しい空間を得られたのだから。
一緒にそこで過ごしたメンバーは、実は他のメンバーは転入組。
同じ様にその空間の中に入っていけないメンバーが一緒にいた。
中学校ではボランティア活動がその頃から盛んではあったが、そこには参加せず。外で参加していた。
勉強もできない、スポーツもダメ。
誇れるものは、書道7段の腕前とPCだけ。当時使っていたのは一太郎。
中学3年生の時の担任の先生が、高校受験を前にして言ったこと。
「俺の出世のために、東朋(ビジネス工科高専)へ行け!」と宣った。
これには親が反論して当初の希望通り、電車1本で行ける商業高校へ進学した。(希望したのは親。私自身は共学でなければどこでも良かった)
中学校を卒業する時に、1年生の時の担任であったあおパチから贈られた言葉。
「精いっぱい生きよ!」←実はこの先生とは30年以上、お付き合いがある。

学び舎Ⅱ

高校時代

男子から逃れたかった。イジメが苦しくて辛かったから。
勉強らしい勉強もできず、何とか高校生になった。
普通科なら授業についていけない可能性が高いが、商業科なら、みんな同じスタートラインという事で商業科に進学。
運が良かったのは、教卓の前だったので、解らずに困っていたら、先生がみんな優しく教えてくれたので、初めて勉強って楽しいものなのだと知った。
副担任の先生から食堂の2階にある教室へ行くように促された。
「普段の時間なら行きにくいだろうから、私の授業時間に行きなさい。欠席にはしないから」と。
ドキドキしながら行った先は、スクールカウンセラー室。
伝統ある商業高校。
実は、イジメ被害の生徒や家庭環境に問題のある生徒が多く、かなり古くから設置していたという。
臨床心理士の先生が複数在籍していた。
藤っちゃんとの面談後に体験したのは箱庭療法。
暫くは授業中にずっと行っていたのは、覚えている。
ある時、藤っちゃんに聞いたこと。
「先生たちの様になるには、どうしたら良いん?」
成績、最下位に近いのに…その言葉を否定する事もなく。
「先ずは心理系の大学に行って、大学院に行かないといけないから大変だよ」と教えて貰った。
その後、直ぐに進路指導室へ赴き、商業科から四年制大学へ行く方法を確認しに行った。
進路指導部長も無理とは言わず、「内申点が必要になるから、何でもいいから3科目。3年生の1学期までに簿記・珠算・パソコン・ワープロの中から3科目の2級を取得することと出来れば生徒会活動に1年間参加できると良いね」と教えてくれた。
それから1年生の時の担任ぢぃの所へ行き、勉強の仕方を聞いた。
何分、勉強なんてした事がない。
やり方も解らない。
商業の勉強はもとより、副教科(普通科の主教科の事)の勉強も知らない。
「人に教えるつもりで勉強する」
やり方は教えて貰ったが、それがとても難しい事と知ったのは、そこから遥か10年先である。
「全ての科目の勉強はしなくていい。商業さえやっていたら、副教科の成績もいずれ同じ様に結果は出るから無視してていい。やるのは商業だけで良い」と仰ったので、本当に副教科は一切やらず。
ずっと商業科目だけ必死に勉強して1年の1学期から検定試験を受けまくって、筆記(学科)で落ちまくっていた記憶がある😅
入学当初は柔道同好会に入っていたが、先輩の寝技が原因(基本も出来ない相手にしてはいけない行為)で再び、首を痛め入院。
2学期から、書道部・珠算部・簿記部に入り、多忙な学校生活だったのは覚えているが、勉強がめちゃくちゃ楽しくて毎日が充実していたのは記憶に残っている。約束通り、資格は3科目2級は取得したが、時代故に進学を諦めざるを得なかった。
2年で生徒会に推薦してくれた担任ピップさんは途中で病気休職後退職された。休職後はスペインじぃちゃんがいたので、1年を本当に楽しく過ごさせて貰った。美術は嫌いだったけれど、よく美術室に行って、色んなお話をしていた。(3年で音楽・美術・書道の選択科目だった)
3年2学期後半。既にほぼ全員が進路が決定していた頃。
情報処理検定を巡って、とある先生と大揉め。
「俺に逆らった奴は就職も進学も出来ない様にしてやる!」
情報コースなら3級までなら合格できるが、一般コースの人間にはレベルが高すぎる試験。まして、この検定試験に当時1級はなかった。
(卒業して3年後にできて、10年足らずで検定試験ごと廃止になった)
だけど、受験しなければ、永遠に受験者も合格者は0人のまま。
その先生に反対されたら、誰だって諦めるだろうよ。
だけど、諦めたくなくて。姑息な人間が許せなくて。
その後に誰かに受験できるチャンスが巡ってくれば…と思い、強行突破で受験申し込みをした。
先生は、手を差し伸べようとするクラスメイトにも同じように「俺に逆らった奴は就職も進学も出来ない様にしてやる!」と言っていた様だが、それなら「一緒に就活をやり直す!」と先生の逆鱗に触れながらも、勉強に付き合ってくれた仲間がいた事に感謝。
社会人でも一発合格が難しかった試験に滑り込み合格🌟
正直、受かった時はホッとした。
自分の勉強に付き合ってくれた仲間には大手企業(大和銀行やさくら銀行等)に就職が決まっていたメンバーもいたので、プレッシャーは有ったが、本当に受かって良かったと思う。
イジメが全くなかった訳ではなかったけど、色んな人たちに支えられた良い時間であった。
卒業後は元々、専門学校に入学する予定(特待生推薦入試で合格していたが入学しなかった)でいたが、大学に行きたかったことも有り、次は自力でと願って、何の相談もせず就職した。
縁あって、2社目で大学に行く機会を与えて貰ったが、当時はまだ怖かった。また誰かに邪魔されるのではないかという心配があり、確実に卒業できる学校で、経済的に安い所で探した。
高校1年生の時の担任ぢぃから、一度は「通信制大学でB大学だったら心理学科があるよ!」と教えて貰ったが、実習費用が高く、自力では支払いきれない事が懸念点でもあり、回避した。
ただ、通信制大学という選択肢が増えたこと、それまで関東地方でしか卒業が目指せなかったのが、全国受入れをするという良いタイミングに恵まれたことで放送大学への入学を決めた。
ところが、ほとんどの先生は通信制には否定的で「うちの高校から通信制は絶対に無理」と言っていた。
前述の情報処理の先生から「もし10年でお前が卒業できたら逆立ちで一周してやるよ!無理だからな!あり得ねえけど(笑)」と言っていたので、絶対に卒業したいと思った。

淀川付近

大学時代

本音、心理学の勉強はしたかったけれど、とにかく誰かに邪魔されるのが恐ろしく怖すぎて、勇気のない私は、心理と教育コースは選択できず。
当初は親に内緒にしていたので、コッソリ勉強していた。
学費もずっと親には頼らず。
自力で大学に行った。
邪魔されたくなかった。
一番最初の頃のセンター長とはほぼ関わりがなかったが、二代目センター長とは、サークルの飲み会で出逢ってからは、よく色んなお話をしに出掛けていた。若い頃は、ピッチャーで飲んでいた。
事務局ともよく会話をしていたので、9年という歳月があっという間だったとは思う。
ただその中で、父は25歳になる少し前に、高校1年の時の担任だったぢぃは26歳の時に共に病気で急逝した。
大学時代は主にさん付けをしており、先生と呼んだことがあまりなかったと記憶している。

大阪学習センター

資格スクール(介護職員基礎研修)

初めての資格スクールは、介護職員基礎研修を学びに大阪北区の介護職員養成校に6カ月通い、資格を取得した。
僧侶であり、障害福祉に長けている先生から、福祉の現実を教えて貰った。
6カ月の養成講座在籍中は関係が持てないので、終了後に先生が在職していた障害福祉施設で週に1回ボランティアとして参加させて貰った。
生々しい現実をみて、一緒に参加したメンバーは1回と持たずに断念したが、私は先生が僧侶に専念される為に退職するタイミングまでずっと一緒にお世話になっていた。(当時は生活介護勤務で土日祝休みだった)
施設外実習では、就労継続B型と特養にそれぞれ2週間、小規模多機能施設orデイサービスに4日間、居宅1日間。
長かった。特養でキツかったと思う事は、利用者さんの情報を全く教えて頂けず(その方は不穏になると暴力を振るわれる方だった)、眼鏡を壊されるという事があった。学校にも相談したが、無かったことにされたので、窓口対応した奴が最低のクソだったので、本当に憤りしかなかった。
情報が欲しければ、入社しろ!と脅されたが、断った(別の会社に入職、休職中だったので)のが、気に入らなかった様である。

資格スクール(パソコンスクール)

重度重複障がい者支援施設に勤務したのち、腰に不安が有ったので、今後どうするか考えて、先ずはスキルを身につけようと行った先がパソコンスクールである。
運命的な出会いだったのか。
BOSS(初代)が、色々相談に乗ってくれた。
そして、BOSSからの願い。
「色んな意味で問題児。親戚なんて頼らないだろうし、まぁ役に立たんが。ずっといつまでも私たちがいてあげる事はできない。いつか私(BOSS)もBOSS姉ちゃんもいなくなった時、泣いているのではなく、自分の足で立って歩んで欲しい」との願いから、IllustratorやらPhotoshopスタンダードの勉強も含めてやらされた。
BOSS姉ちゃんは「資格を取得すれば自信になる」と言っていた。
それを信じて勉強してきたのだが…
一時的な高揚感は有るが、自信にはならなかった。
BOSSは腰に爆弾を抱えていたようで、私の為に随分と無理をしていた様である。それを知ったのはBOSSが倒れてから。
カッパ君から「BOSSが倒れたのはアナタのせいだ!」と言われたことがある。だけど、その言葉を否定した人物がいる。本人だ。
昔、一時的にSNSでコッソリと繋がっていて、その時に話してくれた。
「あの頃、あのスクールで一番努力していた。誰よりも。だから何とかしたかった。厳しかったと思う。自分の娘より厳しくしたから絶対に恨まれてるって思っていた。だけどSNSには、全然そんなこと書いていなくて、寧ろ感謝してくれていて嬉しかった😁」と。
すっげー怖かったよ😂けど、恨んでないのは事実だしね。Excel、ちゃんと使えるようになったよと伝えた時。
「ずっと見ていたから知ってる!まさか教える側になるとは、想像の斜め上をいくとは…大したもんだわ。あのね、一番後悔している事は辞めた事じゃないよ。試験に合格した時に褒めてあげなかったこと。一番努力したと思う。その努力を否定したこと。天狗になって欲しくなくて…ごめん!先生として戻れなかったとは申し訳ないけど、私は後悔していない。一番、最高の受講生と一緒に勉強出来たから幸福だったよ!」と言ってくれた。
あの頃、承認欲求が高くて、褒めて欲しくて頑張っていた事は事実。
だけど、どうあっても、天狗にはならなかったと思う。
ずっと目指している先にはBOSS姉ちゃんの背中が有ったから(笑)
その時に約束したこと。
「これから先の未来、危険だなと思ったら、ふり返る勇気と立ち止まる強さを持って欲しい!もし…なんて事になったら地獄の果てまで行っても連れ戻す!!」なんてきっちり〆られて別れたのが2年前の春。
BOSS姉ちゃんとも4年近く勉強して、BOSSより一足早くにお別れ。
キャリアコンサルタントとしては、出し方がちょっと雑過ぎた印象しかない。BOSS姉ちゃんとの別れから、暫くは小姫と勉強して、小姫も退職となり、学校も閉校となったところで終了した。
習慣アプリは、一応今も継続しているが、追々、後任の公認心理師さんと相談し、決めたいと思う。

下記画像は、お世話になった先生を、Illustratorで描いたのだが、もし今、描くとすれば「公認心理師さん」たち。
果たしてうまく描けるのかな?と思う😂

左上:かっぱ、BOSS、姫さん
左下:BOSS姉ちゃん、乙女ちゃん、おじょう、小姫

資格スクール(介福士実務者研修)

介護職員基礎研修を修了しているので、本件資格については、喀痰吸引の実習のみであったが、まさか再び、運命的な出会いをするとは…
昔、訪問介護で一緒に仕事をしていた看護師さん。
その方がまさかの講師。
お陰でまったりと授業を受ける予定が、授業を円滑に進めたかったんだろうね。こまめに当てられた上に、実習のお手本に使われた💦
まぁ、お陰で満点合格で資格取得させては貰ったが…
ビックリな一日でした。

資格スクール(キャリコン養成講座)

こちらは別の回で紹介しているので、詳しくは省略するが、色んなドラマが有りまくり、通称では呼んでおらず、担任の先生もTAさんも含めて、先生と呼んでいた。

キャリコン試験支援

前任者は、恐怖政治を行っていたところから、本当は先生なんだけどそれを好まなかったので、さん付け。
私の尊敬する人に対して、強い対抗心を持っており、2級に合格したら私を尊敬してね!という変わった人でした。
後任の支援者さん。
いつも通りの呼び方で、先生と一度も呼んだ事なく。
「先生」と呼ぶことに強い抵抗感を持っていて、呼べなかったが正しいか😂
とても、忍耐強く、気長に向き合って下さる、とても素敵な方でした。
本来はそんな人こそ「師」と呼ぶに相応しいのでしょうけど、🐯🐎が、邪魔をして下さいました。

一緒に伴走してくれた支援者さんには「感謝」しかない💛

公認心理師さん

現状、公認心理師さんが2人いる。
今月いっぱいまでだけど。
本当は臨床心理士さん同様に「先生」なのだけど、🐯🐎が原因過ぎて
どちらも先生と言ったことがない。
どちらもXと同じ呼び方で。
本当に優しくて、面白くて、温かい人柄。
「師」が相応しい。
後任の公認心理師さんは、全部、言語化しちゃうので、本当に心が融けていく感じで、墓場まで持っていくものが減りました😂
言えないという言葉に対して、「対等で、教える立場じゃないから」と優しさ溢れる言葉で包んでくれた事に本当に感謝でいっぱいです。

見たくない自分と向き合うために

私が「先生」という言葉を使う人は、基本的に憎々しいと感じている相手だけである。
使わなくても、こいつは「先生」と認識している時もある。
普段は、さん付けか、通称で呼んでいるので、違和感を感じてこなかったが、キャリアコンサルタントの勉強を通して、色んな課題に直面した。
表面上、取り繕って、後日向き合う事にした課題は山積みに😅😅
ただ、キャリアコンサルタントの実技試験前に出せるだけの課題が、出たのは本当に良かったと思っている。
見たくない自分と向き合う事で出た「課題」だった。
自分としっかり向き合って出てきた「課題」なので、後悔はしていない。

「見たくない自分」とは、またの機会に💖

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?