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「気持ちよさ」と「正しさ」|言い換えられない言葉について考える・その1

「気持ちよさ」という感覚について、考えていました。

「気持ちよさ」を、どのように言い換えられるだろう?……と考えたときに、「気持ちよさはつまり気持ちいいんだ!」としか言えない。「スッキリする」「快感がある」「いい感じ」といった表現はできるけれど、結局、同じことを言っているだけでそれ以上説明ができない言葉です。

この、説明できない「気持ちよさ」という感覚が、とても大事なものではないかと私は考えています。それを3回に分けて書いてみようと思います。

その1:「気持ちよさ」と「正しさ」👈
その2:「気持ちよさ」と「美しさ」
その3:「正しさ」と「美しさ」


●「正しさ」を突き詰めると「気持ちよさ」になる?

以前読んだ『数学の想像力 正しさの深層に何があるのか』(加藤文元著)という本のエピローグに、こんなことが書かれていました。

例えば数学の問題に対する解答が合っているという感覚は何に由来するのだろうか?思うに、この感覚はかなりの程度〈気持ちよさ〉に似ている。

「論理的に合っている」とは、理屈がスッキリ通っていることであり、その「スッキリ感」が気持ちよさに他ならない
。逆に論理的に合っていないと、どうしてもそこにしっくり来ないものが残る。その意味で、論理的不整合とは〈気持ちよくない〉ことなのだ。

そこからさらに一歩進めば、論理的整合性・不整合性の根拠も、結局は気持ちよさ・悪さという極めて人間的な感覚でしかないのではないか、とも考えられるだろう。
(『数学の想像力 正しさの深層に何があるのか』加藤文元著)

この本は、数学における「正しさ」の根拠を説明するという野心的な一冊でした。歴史的に見てどのように「正しさ」というものが説明されてきたか。そしてそれは、どのような意味で「正しい」のか──。たくさんの数学者が出てきて、たくさんの種類の証明が出てきました。

でもエピローグで、結局は「気持ちよさ」が根拠ではないかと著者は語ったのです。


●視覚的な正しさの決済は、感覚的に「気持ちいい」ことでしかない

プラトン『メノン』に出てくる有名なエピソードがあります(この本にも登場します)。ソクラテスが、全く教養のない羊飼いに正方形の対角線とそれを使った面積の関係を教えるシーンです(Wikipediaにも概要がのっています)。

数学的素養のない人でもやさしく導けば、必ず自分自身で真理を掴み取ることができる。という教えです。


このように「数学の知識がなくても見ればわかる」「小学生でもわかる」という図形問題は諸々あります。私たちはみなもともと数学(算数)初心者だったので、こういうところからスタートしているはずです。

例えば【1×4=2×2】という式。これがなぜ成立するのかを、小学生に教えるならば、こんな図形を描くことができます。

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このような図を使って「ほら、同じでしょ?」と教えることができます。

でも「ほら、同じでしょ?だから、正しいんだよ」という感覚を、それ以上説明できる根拠はないのです。もしこの正しさの根拠を説明しろと言われても、「いや、どう見ても同じじゃん!」と逆ギレすることしかできません。

こうした「正しさ」の感覚は、突き詰めれば、先ほどの加藤さんの引用のように「気持ちよさ」に辿り着くように思います。

それは、人間が共通して感じる「合っている」という感覚です。

言い換えれば、そうなっている状態が
「スッキリする」
「腑に落ちる」
「しっくりくる」
「なんか良さそう」
「安心感がある」
というような感覚。それが「正しさ」の根拠ではないか。

つまり「正しさ」という、いかにも絶対的に聞こえる言葉は、徹底的に掘り下げると「気持ちよさ」という、それ以上言語化できない、とてもフワッとした感覚にしかならないのだと私は思います。


●道徳的な「正しさ」においても「気持ちよさ」が根拠になるかもしれない

「正しさ」が問題になるのは数学や自然科学だけではありません。むしろ、私たちが普段用いる「正しい」「正しさ」という言葉は、より道徳的な意味合いを帯びることが多いのではないでしょうか。

「あの時の私の選択は、正しかったのだろうか……」

こんな悩みを、私は常に抱えています(笑)。他にも、

「お金を稼ぐためだけにやりたくない仕事をするのは正しいことだろうか?」
「彼を支持するのと、彼女を支持するのは、どちらが正しいのだろうか?」
「政府が緊急事態宣言を延長するのは正しい判断だろうか?」

というように、毎日のように「正しさ」について考えています。

そういった「正しさ」においても、突き詰めていくと最後に残るのは「気持ちよさ」的感覚かもしれません。

他に、「より多くの人にとって利益となるかどうか」つまり「最大多数の最大幸福」という考え方も一般的ですが、それとて突き詰めれば「幸福」という言語化の非常に難しい言葉に行きつきます(「幸福」を深掘りするのは難易度が高すぎるので今はやめておきます)。


●まとめ

で、何が言いたいかというと、

◎「正しさ」というとってもシッカリしていそうな言葉は、実はシッカリなどしていないということ。

◎「正しさ」をどんどん深掘りしていくと、最後には「気持ちよさ」のような、フワッとした感覚に行き着くということ。

◎逆に言えば、「気持ちよさ」という、いかにもフワッとしていてよくわからない感覚が、実はすべての根拠になりうるような強さをもつのではないかということ。

その程度にしか今は言葉にできませんが、これは見過ごしたくない感覚だなと感じています。


参考文献

参考記事


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