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「ゲームをやると頭が悪くなる」という人に、ゲームのおかげで頭がよくなった男が言いたいこと

本日7月15日は任天堂の家庭用ゲーム機であるファミリーコンピューター、通称ファミコンの誕生日である。今年でファミコンは40歳。私も1983年生まれなので、同い年である。

私は小1の時にファミコンを買ってもらって以来、ずっとゲームの虜だった。23歳くらいまで、ずーっと自由時間の半分以上はゲームに費やしてきた。今では仕事や加齢の影響で、かつてほど時間はかけられていないが、それでもゲーム愛は冷めていない。

私が子どもの頃は「ゲームは1日1時間まで」というテレビCMが流れ、実際に私の周りでも1日にゲームをさせてもらえる時間の制限が設けられている家庭がちらほらあった。「ゲームばかりやっていると頭が悪くなる」という言説が大人の間で支持されていたからだ。

だが、私は子どもの頃からその風潮に違和感を覚えていた。というのは、私の中高時代の友人で京大、東工大、早稲田などの難関大に進学した人をはじめ、頭がいい子たちは皆一様にゲームが大好きだったからだ。

個人的にゲームが知能を鍛えると思われる理由は、試行錯誤にある。昔のゲームは難易度調整がおおざっぱだったものが多く、アクションゲームにしてもRPGにしても、クリアするためには失敗を重ねながら「次はここをこうしよう。あそこの場面はこうすれば上手くいくんじゃないか。」と工夫する必要があった。

今みたいにネット環境もないので、友人同士で情報を交換しながら自分で攻略法を考える必要があった。ゲームの攻略本や裏技集みたいな本も販売されていたが、すべての情報が載っているわけではなかったため、頭を使わなければいけなかったのだ。

特に私が大好きなRPGなどはシビアな難易度のものが多かったため、お金、アイテム、HPやMPなどのリソース管理が非常に大事で、常に節約と使いどころのバランスの見極めが要求された。おかげで計算が強くなったし、ムダを嫌う合理的思考も身に着いた。

また、先に述べたゲームの攻略本も、私にとっては知能を育ててくれる格好の教材だった。最初に親に買ってもらったのは初代ドラゴンクエストの攻略本だったが、当時小1の私は夢中になってボロボロになるまで読んだのを覚えている。

( ↑ これが私のセルフ知育の原点と言っても過言ではない)

そこに書いてある情報の文章で読解力や語彙力が身に付き、敵モンスターの強さのデータで数字とグラフ(パラメータが六角形のグラフで示されていた)に強くなり、アイテムや呪文(魔法)のイラストで想像力を鍛えられた。

以前「マンガで東大レベルの基礎となる国語力が身に着いた」という記事を書いたが、高校卒業まで自宅学習時間がほぼゼロだった私は、文字通りゲームとマンガで頭が良くなったのである。

もちろん「ゲームで頭が悪くなる」という人の気持ちもわかる。ゲームが好きだからと言っても、当然ながら成績の悪い子はいたからだ。

しかし、これは因果関係が間違っている。ゲームをするから頭が悪くなるのではない。言葉を選ばずに言えば、普段から深く考える習慣が身についていないから、頭が悪いのだ。

それを子どもの頃に実感したエピソードがある。「トルネコの大冒険」というゲームを、仲はいいものの成績のよくない友人と一緒に遊んでいた時のことだ。

このゲームは自分と敵が交互に行動する。こちらが敵に攻撃をすると、今度は敵がこちらに向かって攻撃を仕掛けて体力を削ってくる。自分の体力がゼロになるとゲームオーバーなので、必要に応じて回復アイテムを使わなければいけない。ただし、そのアイテムも有限なので、むやみには使えない。

このような状況で、私がプレイしていた時に友人が「ヤバい、やられちゃうよ! 回復アイテムを使わないと!」と声を張り上げるシーンがあった。私は「?」と思った。明らかにまだこちらの体力に余裕があったからだ。少なくともあと1回は余裕で敵の攻撃に耐えられる。

そう思ったので私は「敵から受けるダメージが大体これくらいだから、今の体力からするとあと1回は全然大丈夫だよ。ギリギリになってから使った方が、アイテム節約できるでしょ。」と話した。すると友人は「ああ~、確かに! そこまで計算してなかったわー。」と感心した様子でこちらを見ている。

その時私は小5くらいだったが、初めて「ああ、そうか。彼はあまり考えずにやってるんだな。それで成績も悪いのか。」と思ってしまった。先に述べた計算は決して複雑なものではなく、意識していれば誰でもすぐに気づけるレベルのものだったからだ。これが私の中で「ゲームをやる=頭が悪くなる」理論が崩れた瞬間である。

今ではネットで簡単に詳しい攻略情報が得られるようになったため、昔と比べると自分で考えて試行錯誤する余地が減ってしまったかもしれない。それでもゲームが知能低下の原因になるとしたら、例えば東大生でゲームをやっている人の数は極めてゼロに近くなるはずだが、そうでないことは明らかだ。実際に私の100人近い東大生の知り合いにはゲーム好きが多い。

つまり、勉強をしようが、ゲームをしようが、周りの景色をただ眺めている時であろうが、頭のいい人とそうでない人では常にあれこれと考えを巡らせる量が違うのである。頭を使う習慣の度合いの差が積み重なり、知能レベルの違いが生まれてくるのだ。

もちろん生まれつきの気質や遺伝的な差はあるだろうが、それが全てではないだろう。よく「偏差値○○から東大に逆転合格!」という話を聞くと「どうせ元から頭良かったんでしょ」という反応を示す人が多いが、その頭の良さがどのように形成されたかまで想像を巡らせる人は少ない。

まさかオギャアと生まれた瞬間から「人生とは何の意味があるのか…」とか「一般相対性理論と特殊相対性理論の違いとは…」などと考えている赤ん坊はいないだろう。結局は幼少期からどれだけ思考力を身につけるトレーニングを積んだか、普段の習慣としてそれが身についているかの差に過ぎない。

そして、その思考力を鍛えるトレーニングは決して机の上の勉強だけではない。むしろ、机に向かっていない時間の方こそ大事なのだ。

常に身の回りの物事に対して「なぜ?」という疑問を持ち、分からないことがあればすぐに調べたり、困難があればどう工夫すれば乗り越えられるかを考えるという、自分から答えを求めて行動する姿勢の有無がものを言う。ゲームはその姿勢を育むツールになり得るのである。

これが私が小学生の頃からずっと考えながら、15年の塾講師・家庭教師歴の中で多くの子どもを観察し、さらに東大生たちとの触れ合いを経て導き出した「ゲームのせいで頭が悪くなる」という言説に対する反論だ。

もちろんゲーム依存症のように、生活や体調のバランスを崩すほどのめり込むのは危険であるが、適切な自由時間の範囲内で能動的に頭を使って取り組んでいる限り、ゲームが原因で頭が悪くなると決めつけることは出来ないだろう。

頭を鍛えるだけでなく、ゲームで味わえるストーリーや音楽に対する感動、攻略によって得られる達成感などは、文学や映画などにも負けず劣らず心も豊かにしてくれる側面さえある。

ファミコン40周年を記念して、今後も健全なゲーム文化が広く発展していくことを願うという一文を以って、今回の記事の結びとしたい。

(※ちょっと普段の記事とテイストが異なりましたが、次回はまたくだらない話に戻ると思います。)









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