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77年前の「3月10日」が今なお世界に問い掛ける事

3月に入ってから、あちこちで「3月11日」の事に触れて話している。言わずもがな、東日本大震災とそれに関連して起きた事、今もなお続いている事を忘れないためにだ。11年前のあの日、東北から離れた都内で、それまでにない強く長い揺れを経験した私にとっても、この出来事は忘れがたいものとなったし、この先も忘れ去る事は出来ないだろう。

しかし、東京の下町で生まれ育った私には、3月といえば3月11日と同じくらい忘れがたい日がもう一つある。「3月10日」。今から77年前の1945年3月10日未明に起きた東京大空襲の日である。東京の下町一帯が米軍に焼け尽くされ、一夜で10万人もの命が奪われた出来事だ。
私がこの出来事を知ったのは小学2年か3年の頃。自分が通った小学校(大正の終わりに創立)の資料室で、その年の6年生の子たちが卒業式のため疎開先から戻り、先生たちと一緒に写った写真を見た。その写真の下には、その翌日の3月10日にほとんどの子たちが空襲で命を落としたと説明書きがあり、衝撃を受けたのを今でも覚えている。写真を見た当時の私とさして年の変わらない子たちが、何の罪もなく命を奪われた事、しかも故郷に戻り新しい門出を祝った翌日に起きたという事に、言いようのない驚きと怒りを感じた。

その後、太平洋戦争について学んでいく中で、日本が戦争を推し進めた国の一つであった事や、マスメディアの報道などで煽られそれを支持した国民が少なくなかった事も知り、日本は戦争加害者でもあった事を突き付けられ戸惑いもした。正直その事実を受け入れられなかった時もあった。
けれども、ある時分かった。一旦戦争が始まれば、始めた国も巻き込まれた国も、否応なく加害者とも被害者ともなるのだと。日本はアジアや太平洋の国々を攻め込み、その一部を自国の領土としたり、多くの現地の人を傷つけた。それと同時に、戦地に駆り出されたり、現地で生活していた日本人の多くも、日本から離れた土地で命を落としたり、肉体的あるいは精神的に一生消えない傷を負った。本来であれば、皆そんな形で傷付いたり、命を奪われるはずではなかったのに。
そして、戦争の終わりの頃、戦闘に(少なくとも直接は)関わっていない一般の人たちが、空襲や原爆であっという間に沢山亡くなった。生き延びた人たちも、大切な人たちを亡くしたり、心や体に傷を負ったままその後の人生を過ごした人も少なくなかっただろう。

歴史を見ると、太平洋戦争に限らず、戦争というものは、一度始めてしまうと止める事がとても難しいらしい。どちらかが負けるまでは、という気持ちが働いてしまうからだろうか。その間に苛烈さは増していき、市街地にまで戦闘が繰り広げられ、死なずに済んだはずの人々の命まで奪われてしまう事は、多くの人が知るところだろう。
さらに戦争の酷いところは、関係した人の誰もが何かを失い傷付いて終わる点ではないか。巻き込まれた人々は選択の余地を与えられぬまま、有無を言わさず決断を強いられる。ある人は一人で逃げ、またある人は戦闘の最中残って戦ったり、他の人を助けるため自身を犠牲にする。あるいは誰かを裏切る人もいるだろう。どんな形であれ、その決断の結果に人々は後々苦しめられる。それはどんな立場であれ、誰も逃れる事の出来ない運命ではないだろうか。

そんな出来事を繰り返し傷付いてきたにもかかわらず、人間はずっと戦争を繰り返してきた。歴史を振り返れば、この世界で戦争が一つもなかった時代はほとんどない。今もまさに、ウクライナやミャンマーを始めとする国々で戦争が行われている。77年前の今日、東京の下町でも同じような光景が繰り広げられていた事を考えると、今も同じ事を繰り返す人間の愚かしさを恥じたくなる。
それでも、戦争が終わる兆しの見えぬまま、日常生活を奪われた人々はかつての自由と平和を取り戻さんと、限られた人手と物資で必死の抵抗を続けている。ウクライナを侵攻したロシアでも、若い世代を中心に戦争反対の声が強く上がっているという。そこに人間の強さと美しさが垣間見え、こうした人たちがいる限り、私たちはまだ生きていけると信じたくなる。

こんな愚かな行為を終わらせ、この世界を誰にとっても安全で平和に暮らせる場所にするためにすべき事は何か。東京大空襲から77年経った今も、その問い掛けは続いている。そこに正解なんてものはきっとないだろう。
私自身の今の答えは、歴史に学ぶ事。かつて人間が行った愚かな行為を、決して目を逸らさずに知る事、そしてその出来事がもたらした事を単なる暗記で終えず、自分で調べて、一人ひとりの立場に落とし込んで考えてみる事(自分や家族、親しい友人だったらどうするか等)。そして誰かと話してみる事。そうする事で、私たちのその後の生き方が自ずと変わってくるのではないか。ウクライナで抵抗を続ける人々や、ロシアで戦争に抗議する人たちのように。例えすぐに戦況を変えたり、国を動かす事にならなくても、その行為自体は決して無駄なんかではなく、巡り巡って大きな力になる。私は強くそう信じている。

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