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【世界に1台】HHK Happy Hacking Keyboard PC

 HHKの産みの親、東大の和田先生と知り合ったのは1990年だったか、1989年の事だったか憶えていない。とにかく大凡自分の中の東大の先生のイメージとかけ離れた破天荒でオープンな人だという印象だ。当時の私たちと言えば東京のハッキングチーム(みたいなもの)を運営していて、当時は合法だったものの現在は違法となるようなギリギリの行為で知的好奇心を満たしている悪童だった。

当時のハッキング

 NECのPC98向けには、商用ソフトのプロテクト解除の「ファイラー」が売れていた。勿論ソフトウェアは当時から著作権で保護されていたが、駅前にはソフトのレンタル屋さんが必ずあった。まあレコードやCDのTSUTAYAみたいなものをイメージして頂ければそれでだいたい同じだ。ここで一晩だけ試用したいソフトを借りるのだが、同時にブランクのフロッピーディスクと、コピーソフト本体、コピーソフトのオプションになる商用ソフトのプロテクトを外すプログラムである「ファイラー」を同時にレンタルするのだ。当時レコードやCDを自宅でカセットテープに録音して翌日返却する行為は「私的複製権」という中々グレーなカタチでまかり通っていたが、これと同じモデルが商用ソフトの世界にも存在していた。プロテクト解除のソフト本体は大阪とか京都のアングラ業者が売っていたが、学生アルバイトハッカー達が、そのファイラーを作ってはお小遣いを貰っているというビジネスモデルだった。

 ハッキングのもう一派は、移植だった。バイナリファイルをディスアセンブルして、アルゴリズムやデータを他のプラットフォームに移植したり(当時はメーカー間で互換性が無かった)MinixやFreeBSDなどを国産機に移植するためのLIBCやCコンパイラ、エディタのEmacsなどの移植を行っているハッカー達も多かった。勿論、ディスアセンブラやアセンブラ、リンカ等も自作していた。当時はまだパソコン通信時代で企業も政府も大きなデータベースは持っていないし、ネット接続もされていなかったので、ハッキングそのものは通信とはあまり関係が無く、寧ろインターネットの前身やパソコン通信はハッカー達のコミュニケーションのために大いに運営されていた…。

HHKとの出会い

 僕ら学生ハッカー達の間では、A-Z 10秒打法というワザが競い合われた時期もあって、要は正確な早撃ち競争なのだが、現在のようにキーボードのメカや回路が優れていない事もあって早く撃つと「チャタリング」(誤入力)を起こしていた。一部の早撃ちハッカー達のキー裁きに耐えるキーボードが探されていたし、PC98, DOS/V, SPARC, SUN, Macintosh  等環境が変わっても微妙なキータッチや配列が変わらない汎用的でコンパクト、チャタリングの起こらない英語キーボード、しかも「A」に左には「CONTROL」がある、Emacsバインド対応のキーボード。それがHHK Happy Hacking Keyboard だった。

HHK Note制作

 さて何かの折りに東大の和田先生に作るよと宣言してしまったHHK-Noteだったけれども、数年経ってからカシオが発売したカシオペアFIVAというマシンを流用すればHHK Noteが実現すると思い、FIVAを3枚おろしにして制作し先生にメールしたら大層喜んでくれたのを憶えている。FIVAにはLinuxを入れてあって、開くだけでどこでもいつでもハッキングできた。AIR-EDGEという通信カードも入れてたので、開くだけでネット接続もできてた優れもの。大学時代の先輩がPFUに勤めていたので、PFUに持ち込んで量産検討して貰おうと本気で考えたし、噂を聞いたNECのパソコン部隊の人からもやりたいという話があったが、忙しいのとそんなにニーズ無いだろうと何もしないで今に到っているが、3Dプリンタやクラウドファンディングもある現在、このコンセプトでもっと良いハッキングツールを深圳とかで作るのは悪くないと思っている。どうだろうか。老後の楽しみにしておこうか。欲しい人は♥️スキ してください。

武井信也


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