見出し画像

超訳美女と野獣〜ディズニー倫理概論〜 実写化によって立体化したディズニーの価値観について

たいそうなタイトルをつけているが、まあ要するに、美女と野獣がだいぶ好きなオタクが、実写版をみてちょっと気づいちゃったこと、考えたことをまとめたものです。観てこう思ったんだよ、というそれだけなので、何かあっても怒らないでください。

Ⅰの導入は単なるオタク個人の愛があふれてしまっているだけなので、論じたい中身とはあまり関係ありません。暴れているオタクを見たければどうぞ。Ⅱから読めば言いたいことは分かるようになっています。
また、当然のごとくネタバレを含みます
ものすごく細かくバレていくので、ぜひ事前にアニメ版と実写版を確認の上、読んでもらえるとより楽しめると思います。Disney+はいいぞ。

このプレゼンは2021年に作りました。現場からは以上です。どうぞ。


Ⅰ.導入:美女と野獣とエマ・ワトソン 
私の自己認知を形作り、ゆがめたもの。

この章で言いたいこと

・画龍は美女と野獣が尋常じゃなく好き。
・画龍はハリポタがとても好き。
・実写版のベルがエマでよかった。実写版サイコー!!
・最近やっとこ冷静にみられるようになったら、疑問がわいた

画龍と美女と野獣

美女と野獣とは:
1991年全米公開のディズニー映画。1989年のリトルマーメイドで始まったディズニールネサンス(ウォルトの死後しばらく低迷したディズニーがこの頃盛り返したのでルネサンス=復活と言うんだ。)を代表する神作品である。
いや、単に私が好きだから神作品と言っているわけじゃないんだ。ちゃんと評価されている。アニメ映画史上初のアカデミー賞作品賞ノミネート作品(第64回)であり、作曲賞と歌曲賞は実際に受賞したのだ。すごいんだぞ。
日本での公開日はなんと1992年9月23日。私の誕生日を知っている友人たちよ、祝福してくれ。
…とまあ、私にとっては物心つく前から既にそこにあった作品なのである。

1996年のミュージカルも見に行った。

とはいえ幼児にミュージカルはキツかったらしい。記憶がない。
ここで私のことをよく知る友人は疑問に思うのだ。なぜって私は中学高校通してミュージカル部で、大学でもオリジナルミュージカルを作るサークルに所属しているくらいの生粋のミュージカル好きだからだ。
Why?画龍ともあろうものが??

だっておうちで見るやつとおんなじなんだもの(画龍ちゃん ●さい)

幕間で食ったビスコ(イチゴ味)と、ベル脱走後の野獣の手当のシーン(なぜかその日はそこで客席が沸いた)しか覚えてない。
おうちでビデオで見るやつとホントにおんなじだった。幼児にはそれがどれだけすごいことなのか全く理解できていなかったのだ。なんて恐ろしい。
石丸幹二さんビーストと、濱田めぐみさんベルでした。濱田さんはもうこの後スターダムを駆け上がっていくわけなんですが、これが四季デビュー作だったみたいですね。その後ちゃんと物心がついてからアイーダでもお世話になりました。その後四季退団後も各作品で大変お世話になっております。
いや覚えてろよ!ゆるさんぞ四捨五入したら0歳の私。30歳超えた私が過去の私を断罪しています。

かーちゃんがめっちゃ感動してました。
舞浜アンフィシアターのやつも見に行きたいです。ほんとに。いつか行きますね。

画龍とハリポタ

こちらは当時の話題作としてどうも母が積読していたものを小学3年生の時に一気読みして、まあ、案の定ドはまりしたのだ。当時はまだ最新巻が一冊に収まってましたねえ。。。

当時の私がどんな児童だったかというと、こんな子です。
・テストで100点以外を取ったことがない(※ゆとり教育バンザイ)
・まだ中学受験の勉強をしておらず挫折を知らない
・当時治安も成績も悪めの学校に通っており、そんな奴はクラスに一人しかいなかった。

これらの条件が悪魔合体した結果、自己認知がハーマイオニーに浸食された少女が爆誕したのでした。
戦犯がいるんだ聞いてくれ。当時担任のY先生だ。彼もハリポタを読んでいて、私は先生とオタ語りをしていたのだ。こんな人だ。

・当時の私の小学校には珍しく、質問しても怒らずに答えてくれるし、即答できなかったら調べて教えてくれるし、うっかり先生のミスを指摘しても後でちゃんと調べて訂正して謝ってくれるという、最高の先生だった。小学生に謝れる大人ってすごくないか。
・画龍=ハーマイオニー説の言い出しっぺだ。
「ハーマイオニーが日本の小学生なら、画龍さんみたいだろうなと思ったよ。」と言ったのだ。私は覚えている。「1年生までは髪も長かったんだよ」などと返した。当時はおかっぱだった。
ちなみに、同じクラスにハリーもいた。見た目がかなりハリーだったのだ。ハリーの方はハリポタ未履修につきあんまりぴんと来ておらず、あんまり喜んでなかったので一瞬で引っ込めていた。(小柄なことをイジるのは良くないと先生のコンプラセンサーが引っかかったぽい。この辺のバランス感覚も推せる。)
・掃除用具ロッカーに3本だけ入ってる大人用の長い箒のグレーの柄に「ニンバス2000/ニンバス2001/ファイアボルト」とマジックで書いていた。

見た目は真面目そうで割合シュッとしたあんちゃんだったが、今思えばかなり“こちら側”の人間だったなとおもう。たぶん30代前半だったと思うので、今の私くらいの年だ。めちゃめちゃ楽しんでいるオタクである。
ということで、全部Y先生のせいだ。そういうことにしよう。

さて私はその後中学受験勉強を始め、「問題が解けない」という挫折を味わったり、自分より勉強のできる塾の同級生たちと出会うことで、自分とハーマイオニーをイコールでつなげることはもうできなくなってしまったが、ハーマイオニーの形の歪みは確実に残ってしまったんだ。もう救済不能だ。

そんな私にとっての実写版美女と野獣

ベル=エマ・ワトソンあてがき!!
そのネットニュースを見てその場で立ち上がって拍手した覚えがあります。
美と知性。それしかねえ。エマしかいねえ。
ということで、冷静には見られない作品、それが美女と野獣なのだ。

実写版を見た:感想

1回目:すゅぎょい・・・びじょやじゅだ・・・エマだ・・・うとゅくしゅい・・・あああ・・・・・・・・(死亡)
2回目:いやーほんとすごいアップデートしてますわやっぱディズニーすっげーなあおい(早口)
3回目:リアリティ出たよなあ、ほんと。ちょっといそうだもんなどのキャラも。すっげー(礼賛)
4回目:…あれ、ガストンって死ななきゃいけない…?(冷静)

いきなりどーしたんだよ、って思うかもしれないけど、4回見たところでこれしか考えられなくなったんだ。

昨今のディズニーのトレンド(ポリコレ配慮?)の結果、ガストンは根っからの悪人ではなくなっているし、手下たるル・フゥが「脅威に負けるタイプの善人」ということになっていた。
⇒悪人でないなら、死ななくてよかったのでは?(今回の疑問)
実写ガストン、殺さなきゃいけないほどワルか???

導き出される仮説
⇒ディズニー、善悪の優先順位が私(ひいては日本人)と少しズレているのでは?

Ⅱ.序:実写版ガストンについての考察 

この章で言いたいこと

・ガストンがだいぶ変わった。
・ガストンってもしかして被害者?
・ガストンの罪(crime)と罪(sin)
・ガストンの死の真因

【注意】ここからネタバレを含みます【ネタバレ】

何も配慮しませんので、できれば新旧観てからお読みください。

ガストン新旧比較 

ということで、まずはアニメ版ガストンを見てみる。

アニメ版ガストンの画像。
ベルが読んでいる本に挿絵の一つもないと文句をつけているところ。

・狩り上手なマッチョイケメンナルシスト
・横暴で強欲。自己中。共感力なし。サイコパス。
・顔と筋力と声のでかさで村の有力者となる。
・教養なし。バラガキ。
コレが全て。もうさんざんである。
正直救いようがないので、最後に死んでしまったところで惜しくはない。

一方、実写版でのガストンは、戦争帰りの軍人で村人を守った英雄である。

実写版ガストンの画像です。
さすがルーク・エヴァンズ、解像度がちげえ。

頭の中をちょっと戦地に残してきてしまっているのか、閑静な村の女には全く興味がなく、刺激としてベルを求めるオラオラ系イケメンである。
所謂「…あいつ、おもしれー女。」状態なのだ。
教養なし、読解力や共感力も足りないが、ベルに花を贈ったり、読書を理解しようとしたりするなど善性が強調されている。
ただ、根本の倫理観が欠けていて、器は小さいし忍耐も異常に足りない。
途中ル・フゥも少し引くレベルの癇癪を起すシーンもあり、戦争のストレスによるPTSDや脳萎縮が疑われる。
流石アメリカ、ベトナム然り、イラク然り、傷痍軍人描かせたら天下一品だ。
一方でやっぱり人望はあり、とっさのアドリブで民意を巻き込んで保身ができる等、陽キャのクソな部分は今作でも持ち合わせている。
⇒なぜ歪んでしまったかが描かれており、同情の余地があるのだ。
…とまあ、これがアニメ版と実写版の上映時間48分の差異である。

ガストンの罪(crime)について 

さて、比較をしたところで、今度は作中で発生する彼による犯罪を見ていきたいが、その前に…

アメリカの映画やドラマで、犯人が逮捕されるときに警官がダラダラと述べる口上がある。サイレンの音や犯人の抵抗の声などでかき消されがちなのだが、必ず聞こえるように大声で言い切る。何があっても必ずだ。
あれをミランダ警告という。
アメリカの刑事手続において判例法上確立された捜査上のルールで、捜査機関が身柄拘束中の被疑者を取り調べるときには、被疑者に対してその権利を遺漏なく告知しなければならないという考えから行われている。この告知を怠ったら捜査内容は証拠とできないので、暴れる犯人に手錠をかけながらでも必ず伝えるのだ。内容は以下のとおり。

  1. You have the right to remain silent.(あなたには黙秘権がある。)

  2. Anything you say can and will be used against you in a court of law.
    (供述は、法廷であなたに不利な証拠として用いられる事がある。)

  3. You have the right to have an attorney present during questioning.
    (あなたは弁護士の立会いを求める権利がある。)

  4. If you cannot afford an attorney, one will be provided for you.
    (もし自分で弁護士に依頼する経済力がなければ、公選弁護人を付けてもらう権利がある。)

ということで、弁護士はつけてあげないといけない。映画の中で裁判は行われないが、視聴者視点に流されず、一旦冷静になってガストンの弁護をしてみようと思う。

罪①:モーリスを殺そうとした件について

ベルの父、モーリスをオオカミの跋扈する森に縛って置き去りにしている。これは劇中にも描かれている通り、かなりマズい。村の人も引いてる。
さすがに遺棄罪が成立するしモーリスの死亡について未必の故意がある。

念のため、もう少し詳しく状況を確認してみよう。
・「娘が野獣に連れ去られた!」と騒ぐモーリスが酒場にやってくる。
・村人たちは変わり者のモーリスがなんか言ってるよwwと取り合わない。
・一方、ベルと結婚したいガストンはモーリスへの点数稼ぎにこの茶番に付き合おうとするが、途中で癇癪をおこし、魂胆がばれてしまう。
・上げて落とされたモーリスが怒って娘はやらんと宣言
・キレたガストンがモーリスを殴って気絶させ、その辺の木に縛って放置。モーリスが死ねばベルが頼ってくるだろうなどと発言している。

…とまあこんな経緯だ。よくない。非常に不利な状況だ。

ただ、モーリスが狂ってしまったと確信しているからこそ、こんな行動に出ているのであるからして、当時の慣習・風俗等も加味した検討の必要がある。
舞台は18世紀。ピネルやフロイトが出てくる前で、「狂気は病気だ」という考えがそもそもない。まだ悪魔憑きとかそういうレベルの時代で、狂人は収監する対象なのだ。
(ちなみに、黒人の本屋さんが「モーリスは病気だから施設よりも病院を!」と叫ぶシーンがある。あれで現代人はうっかり「当時から狂気は病気という考えがあった」と勘違いしてしまうのだが、あのシーンのモーリスは森に置き去りにされてそもそも風邪をひいているのだ。これを指して言っているのであって、現代的な価値観でモノを断じてはいけない。狂気は狂気だということを理解しておく必要がある。)
まともなモーリスはもう死んでいるとまで真顔で言える時代である。
よって、脅威を村から排除する汚れ仕事を買って出たとまで言えるのである。
結果としてモーリスの言っていることは真実であり、モーリス発狂の認識が錯誤であることが発覚するが、それはベルが鏡で野獣の存在を村人に示した夜襲の歌のシーンが最初であるため、このシーンではまだモーリス=狂人の認識は成り立つのだ。
映画はどうしてもベル視点で描かれるため、父を殺そうとするのはもちろん重罪だ。とんでもない悪人として描かれている。
一方で、村の平和などを考えた際、狂ったモーリスの行動を止めるという彼の動きに情状酌量の余地はないだろうか。
ちなみに、アニメ版ガストンは駆け込んできたモーリスを村人と一緒に笑い飛ばしており、このくだりは発生しない。これは実写オリジナルシーンであり、新ガストンを有罪にするために新たに作られた罪と言える。

罪②:野獣を後ろから2度も撃ったじゃないか

いや、コレはそもそも死ぬまで撃つのが正解。ヒグマ撃つのとおんなじだ。
言葉通じようとベルが好きだろうと魔法を使う野獣であって、ヒトではないのだ。村襲ってきたらどうすんねん。というかそもそもベルを洗脳しとるんだから、退治して洗脳を解かないとといけない。
ということで、これは殺人の意図がない。適用するとして過失傷害(鹿だと思ったら人だったのと同じ)だが、そもそも野獣は人ではないので殺人罪が適用されない。器物損壊程度が妥当だし、ベルを守ろうとしてるから緊急避難で違法性は阻却される。

…うーん、「野獣≠人」はさすがにちょっと苦しいか。ならこれはどうだ。
実際のところ野獣は元人間なので、発生したのは殺人未遂だ。そこは認めよう。だがしかし、ガストンは野獣が野獣の姿をしていたからこそ撃ったのだ。異論はあるだろうが、私は今ガストンの弁護をしているのでここを強硬に主張するぞ。そもそも魔女の魔法は強力で、野獣はどう見ても野獣だし、中に人がいるなんて誰が想像できようか。ガストンも魔法の影響下にあり、これは心神喪失と同様の状態で責任が阻却される。

よって罪に問う方がどうかしている。
ということでどちらにしろ被告人ガストンはこの点において無罪なのだ。

野獣との比較

続いて、ガストンについて理解を深めるために、今度は野獣と比較してみたい。実写版の野獣を見てみよう。

実写版野獣の画像です。
アニメ版より精悍なお顔立ちだ。

実写版の野獣はアニメ版と比べて背景情報がだいぶと増えている。
どうも母を亡くし、スパルタ教育の怖すぎる親父に育てられた結果、心を閉じてしまった虐待サバイバーのようだ。家臣からの愛は「仕事だから優しい」と素直に受け取れない聡い子でもある。劇中でベルという「愛してもらえないかもしれない人」から愛をもらって人間らしさを育んでいる。
(これって要するにベルは恋人というより母親代わりで、ピーターパンとウェンディの関係。そう思うと多少モヤっとする現代っ子な私である。)
要するに、野獣は発達の過程に問題をもって育った子なのだ。

対して、ガストンはどうだ。もう一度見てみよう。

再び実写版ガストンの画像です。
やっぱり解像度がちげぇ

戦争から五体満足で帰っては来たが、脳にPTSDを抱えている。なまじ顔と実績と、おそらく傷痍年金があるので、村人からは賞賛されているが、これは純粋な愛ではない。今回、アニメ版にはない要素として「すごいぞガストン」というガストンをよいしょする曲中、ル・フゥが村人を巻き込むためにチップを配っている描写がある。
ジブリ映画「千と千尋の神隠し」で兄役が「さてもこの世にきわまれる♪お大尽様のおなりだよ♪あそれおねだり♪」と踊っているシーンを彷彿とさせる…というか、ジブリ大好きディズニーのことだから、このシーンのオマージュなんじゃないかと個人的には疑っている。村におけるガストンは湯屋におけるカオナシなのだ。そりゃさみしいに決まっている。
ちなみに、ル・フゥがガストンに向けているのは間違いなく愛だが、シスジェンダーのガストンはそれを返せない。
美女と野獣のテーマはLove another and Return
愛は相互に育むものなのだ。

ということで、アニメ版では、
醜いが心優しい野獣 vs イケメンだが粗野で横暴なガストン
という相対するところが描かれているところ、
実写版では、二人とも愛を知らない獣であり、共通点が強調されているのだ。公開当初からさんざん言われていることだが、四回見てやっとこさ自分の言葉でこれを言えるところまでいったんだ。

ガストンの罪(sin)について

さて、ガストンに容疑のかかった「犯罪」については実写vsアニメ比較の段で検討が済んだので、野獣との比較を通してガストンを悪役たらしめた真因たる「罪(sin)」を探っていきたい。
野獣もガストンもどちらも利己的だが、野獣だけがベルによって変わることができ、生き残ることができた。要するにガストンはベルの愛を勝ち取れなかったので、死ぬことになってしまったのだ。
そこで、野獣はなぜベルに愛されて、ガストンはなぜ愛されなかったのかを大真面目に考えてみる。

野獣にあってガストンにないものを二つに分けてみた。IQ(知能)とEQ(共感力)である。
IQ:教養の高さ/知らないものを理解する力
EQ:相手の悲しみに寄り添う力/己を理解し、慕ってくれる友人(を勝ち取る力)
これらがないことが、ガストンの死の真因、つまり「ガストンの罪(sin)」であると言えるだろう。
劇中の様子を見ていると、野獣はベルとの交流を通じてEQを獲得している。元々粗野だった野獣が、ベルと会話することを通して心の氷が解け、優しくなっていくのだ。庭の橋の上で、詩を景色として理解した瞬間が印象的だ。その後二人は愛を育んでいくのだが、こう考えてみると、EQが低くともベルという救いは勝ち取れることがわかる。
だから、ガストンの死因はIQの低さであると結論付けることができてしまう。

つまり、ガストンは愚かだから死んだのだ。

オスカー・ワイルドは「罪などない。但し愚鈍を除く」と語ったが、「愚かである」ことを、「罪」としてしまって良いのだろうか。

Ⅲ.破:愚者の取り扱いから考えるアメリカ倫理概論 

■この章で言いたいこと

・ディズニーのメッセージは「馬鹿だと死ぬよ」
・これがアメリカでの正義
・アメリカの自己責任論の根深さ
・アメリカは「迷惑なバカ」にハチャメチャ厳しい

ディズニーのメッセージ

ディズニーはものすごく教育的な存在である。アメリカではディズニーチャンネルが日本でいうところのEテレ的な役割を果たしている局の一つなのだ。そのディズニーが、子供たちに向かって、「馬鹿だと死ぬよ」って、そんな夢のないことを言ってしまって良いのだろうか。
言っていいんです!アメリカにおいてはそれが教育なんです!
むしろ死なないために学ぼうねって話なのだ。

暴論:
アメリカは、恵まれない境遇の人を助けることを、
美徳とはするが、根底では排除してよいと思っているんです。

(排除対象なのに助けるから美徳)
⇒恵まれないことは、努力不足であり、基本的に本人の責任だから。
※ジェンダー・人種・宗教・障害等、本人の努力でどうにもならないものは除く。よって寛容になるためにはこれらが「努力でどうにもならない」ことをものすごく強調するのだ。

アメリカ社会とリバタリアニズム

ディズニーってめちゃくちゃリベラルだよね? リベラルって他人に優しいんじゃないんだっけ??
「優しいことが言えないなら…なーんにも言っちゃいけないぞ」って、とんすけのパパも言ってたじゃないか!!
と、言いたくなる気持ちもわかる。わかるが、浅い。ぬるい。
真夏の子供用プール並みにぬるいし浅い。

■アメリカ人の根底思想:リバタリアニズム
リベラルを語る前に理解しないといけないのがリバタリアニズム、自由主義である。アメリカ人の思想の根底にはこれが物凄く濃く溜まっているのだ。
ここで覚えておきたい人を挙げておく。ジョン・H・ミルさんだ。
この人の名言で、満足な豚であるよりも 不満足な人間である方がよい。というものがある。アニメ版のワンシーンを思い出してしまうね。

ベルにプロポーズして振られたときのスクリーンショットです。かわいい豚ちゃんがいます。
ベルにプロポーズして振られたときの名シーン

さて、そんなミルのリバタリアニズムを、ものすごく簡単にまとめる。
■ざっくりいうと…
自由こそが人間の生きる意味であり、他人の自由を阻害しない限り、人は自由であるべきと考える思想である。
■ひっくり返すと…
⇒他人の自由の侵害を絶対に許さない徹底した自己責任論
■さらに簡単な言葉にすると…
はた迷惑なやつは絶対に許さない

■参考:リベラリズム →これが保守とリベラルの”リベラル”
自由主義&民主主義は行き過ぎるとマジョリティの強権化&マイノリティ排除に向かうが、自由を維持したまま、マイノリティを守ることができないかと考えたのがロールズである。ただし、ロールズが守るべきと考えたマイノリティの中に“愚鈍“や“教養のない人”は入っていない。
■無知のベール:人類共通の正義を探った素敵な思考実験である。そもそも思考実験なので、ある程度の思考力がないとできない。よって愚鈍の存在を無視した思想なのだ。
…ということで、リバタリアニズムとリベラリズムについて、必要なことは書いた。まあ、あとは気になったらググってくれ。

犯罪者対応に見るアメリカの人権 

さて、ここではた迷惑なヤツの典型、犯罪者に対してアメリカでどのような対応をするか確認し、アメリカの人権意識について考えてみよう。

三振法(さんしんほう:Three-strikes law)

アメリカのいろいろな州で定められている制度であり、重犯罪→出所、重犯罪→出所の後、3度目の犯罪が軽犯罪でも、終身刑が決定する制度だ。「お前もうどうせ犯罪繰り返すんだからムショから出てくるなよ」ってなもん。更正させる気が全くない。こんなこともあって、現在、刑務所が超満員になってしまっており、新規の刑務所がどんどん必要になっている。また受刑者たちは非常に安く使える労働力なので、現在アメリカではアウトソース先として刑務所が結構機能しているらしい。現代奴隷法ちゃうんかこれは。
(注:就労が更正のきっかけになるのは承知しているのでこれは受刑者による労働を否定する意図はなく、むしろ受刑者が不当に安価に利用される可能性があることに疑問を呈しています。)

ミーガン法(性犯罪者情報公開法)
再犯率の高い性犯罪者を追跡し、一般市民がこれを避けられるように、法務省が個人情報(顔写真・身長・体重・生年月日・人種・目の色など)を公開してしまうのだ。
わかる。正直私もこうしたほうがいいと思ったことは何度もあるが、ずいぶんと思い切ったことをするものである。
なんと住所を入力するとご近所の性犯罪者の個人情報がわかるWebサイト(お住まいと勤務先がヒットする)まであり、アメリカの人は引っ越しの際必ずこれをチェックするらしいのだ。
日本もたいがい性犯罪者に対する対応が甘いと思うが…ずいぶんと思い切ったことをするものである。

To Catch a Predator(TV番組)
童顔の俳優・女優を使って出会い系サイトに架空のロリショタを登録し、囮捜査でペドフィリアおじさんを全米に晒しちゃうリアリティ番組である。番組側で警察と連携して逮捕までしてしまい、それを全部オンエアしてしまう。いや、まだ犯罪してないだろ。実際、逮捕はされるものの不起訴になったり、裁判で無罪になる場合もあるらしいが、モザイク無しでオンエアして社会的に殺してしまう。これを正義面してエンタメにしてしまう国民性なのだ。最終的に検事だか判事だか、だいぶ社会的に偉い人が釣れてしまい、その人がロケ中に銃で自殺してしまったので、番組終了しているが、性犯罪抑止につながるとかで復活の声が根強いらしい。いや、人死んでるねんぞ…まあ死んだのは万死に値するペドフィリアおじさんかもしれないけどさ…うーん、複雑。

アメリカ人の思想:他人の自由を侵害する者に自由(人権)はない

犯罪者のプライバシー権や生存権についてあまり考えないのだ。ま、わからなくはない。基本的に犯罪者は他人の自由を侵害した人であり、社会の敵である。だから社会の害にしかならない人は社会から排除して、見えないところにいてもらうのだ。
いや、そういうとこやぞ。根底でそういうこと考えとるから #BLM とかになんねん。○○ lives matterって、切実すぎるやろ。

結論:自由主義が過ぎると人権は負ける。

自由を何よりも重んじるアメリカ人は、容易に他人を排除するってわけだ。だからガストンが死んでも違和感はない。ハタ迷惑な馬鹿が死んで、世の中に平和がもたらされたと考えるわけだ

(番外編)■著名人の人権もあんまりないアメリカ (有名税が高すぎる)

■現実の悪意の立証について
アメリカ法における著名人の名誉棄損訴訟では、「嘘をつかれて困った」ことだけでなく、「被告が原告に対して悪意を持っていた」ことを立証する必要がある。悪意でない誤報であった場合は無罪なのだ。
ジョニデvsアンバー裁判では、お互い誤解によるものと結論づけられたけど、アンバーがより悪質と判断されて、アンバーが敗訴したわけだな。

■ウィル・スミス平手打ち事件について
奥様にクソつまらんギャグを言ったコメディアンを平手打ちしたあの事件でも、セレブなんだから、何を言われても耐えねばならないというのが向こうの評価なのだ。暴力なんてもってのほかである。
が、しかし日本での評価は全く逆である。そもそも日本には「仇討ち」という文化があるし、ツッコミで相方をひっぱたくことが日常的にTV放送されていたりするから、「平手な時点で優しい」などと評価してしまうのだ。
⇒こう考えると、日本もなかなか変なのである。

Ⅳ.急:弁証法的アプローチ 

この章で言いたいこと

・アメリカ怖いなって思ったけど、そう結論付ける前に自分も疑おう
・日本人って余裕がある民族
・ガストンに負い目がある私

アンチテーゼ:文化的検討

ということで、ちょっと日本人も変だなと思ったところで、日本の変さを確認していこうと思う。
そもそも何故私はガストンの死に違和感を感じたのかというと、馬鹿を罪としてはいけないと考えたからである。では、私はロールズ的思考を更に発展させた究極のリベラリストなのか。これは半分Yesで半分Noと言えるだろう。
私は「馬鹿を排除しない=正義」と考えているわけではないのだ。
いくつかの要素があって、「馬鹿=排除って危なくない…?」と考えており、これ自体は結構日本人が共通して持っている感覚だと思っているのだ。

日本人が馬鹿を排除しないのは、なぜか。「弱者を迷惑だと考えてはいけない」と教えられているからだ。姥捨て山の物語などがその典型だが、まだ役に立つしもったいないなどと理由を付けてでも排除を嫌う考え方がある。
そういえば、もったいないという感覚自体が世界的には結構珍しいらしく、MOTTAINAIという言葉を広めようとしてくれたノーベル平和賞受賞者がいたなあ、20年位前のはなしだ。リデュースリユースリサイクルの3RにさらにRespectを足してるのが最高らしいが、おっと、話がそれたな。

日本人的思考①:捨てるリスクを取らない国民性

バカなんかしねばいいという考え方は正義にもとると思っているロールズ的思考もさることながら、この考え方を肯定してしまうと、自分より頭のいい人が同様に自分に殺意を抱くことをも肯定してしまうという怖さがある。だからバカでもなんかの役には立つとしてMOTTAINAIへ変換し、溜飲を下げているのだ。

そもそも、MOTTAINAIができること自体、日本が温暖な気候で、周りを海に囲まれており外部からの攻撃を受ける機会が少ないと言う恵まれた環境があるからなのだ。余裕があるから、排除する必要もない。
排除による心理的なコストより、愚行に対応するコストをかけるほうを選んでしまう国民性がある。だから明らかにおかしなクレームとかも「お客様は神様です」精神で一生対応するでしょ。
それが単なる毒だったとしても、漠然とした何かを失う責任を取りたくないのよ。

日本人的思考②:出る杭は打たれる文化

出る杭は打たれる、雉も鳴かずば撃たれまい等、ものすごく事なかれ主義の慣用句がある日本語だ。輪を乱すものを嫌うから、自分が何等か集団と違う意見を持っていた場合、社会に対して黙って忖度して引っ込めてしまうのである。なんてハイコンテクストな文化だ。誰もが人に迷惑をかけて村八分にならないように、監視し合って生きているわけだ。出る杭が打たれるのだから、そりゃあ過激なことは言えないのだ、たとえ言えば同意者がちょいちょい現れるのだとしても。

日本人的思考③:欠落かわいい文化

バカは、かわいいのだ。(真理)
だって「プーのおばかさん」はかわいいだろ!!
ちなみに、原語のSilly old Bear.にはあんまり"かわいい"というニュアンスはないらしく、そういえば翻訳本にも「ばっかなクマだなあ!」と結構強めのことが書いてある。ディズニーはクリストファー・ロビンを「プーたちの穏やかな保護者」として描いているので、セリフの読み方も穏やかなのだ。

くまのプーさんの映画の最後、クリストファー・ロビンが「プーのおばかさん」と笑っているときのスクリーンショットです。
プーのおばかさん

この「欠落かわいい文化」は日韓でデビューするアイドルの育て方にも利用されているというのは有名な話だ。欠落って言うと失礼千万だが、日本人には所謂“完成”前のアイドルの成長を追い、成長する過程を尊び楽しむ超ロリコン文化、はやめとくか、光源氏による若紫育て文化、コレも酷いな、まあそう言う文化があるので、選抜したアイドルをまだ荒削りな状態でデビューさせ、成長の過程を楽しみつつ、数年熟成させて完成度を極限まで高めたところで韓国および世界でデビューさせるあれだ。欠落かわいい文化をマーケティングとして利用しているわけだ。(デビュー時期の違いは韓国の超絶完璧主義粗探し炎上文化も影響してるんだと思うが、話が逸れまくっているのでこの辺でやめる。)

アンチテーゼ:個人的検討 

実写版でベルの手当を受けた野獣のシーンのスクリーンショットです。
シェイクスピアがわかるの?に対する野獣のセリフ:私は“高級な”教育を受けたからな。

さて、日本全体の文化の話はコレくらいにして、突然私個人の話に戻ろうと思う。観測者がどのような背景を持っているかによって評価にブレが生まれる可能性があることから、必要な検討だと思っているのでお付き合いください。
私、画龍という人間は中高大と私立校育ちの非常にコスパの悪い人間である。I had an expensive education, too.
どちらかというと野獣側の人間だということもあり、もろ手を挙げて野獣サイコー!ガストンサイテー!と言ってしまうことに引け目がある。

「重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(マタイによる福音書19章24節)
突然の聖書箇所。洗礼を受けていないのでクリスチャンでも何でもないのだが、通っていた学校がミッション校で毎朝礼拝があったりしたもんだから、こういう時にスッと聖書箇所が出てくるのだ。
「世の中ってこういうところあるじゃん」みたいなうすらぼんやりした話をするとき、聖書がものすごく便利です。マジバイブル。

話をもどす。教育に関して恵まれた側にいるので、恵まれない人に負い目があるわけだ。この負い目が日本人的感覚なのか、キリスト教的感覚なのかはわからない、なぜなら私は日本でキリスト教的教育を受けてしまったまぜこぜ人間だから。

また、私はが通っていた小学校は今思えばけっこう治安が悪かったらしく、バラガキの同級生もたくさんいたのだ。そういう同級生は決まってご両親が共働きまたは片親で、親御さんが家におらず、本を読む習慣はなく、遊び上手なので人望があり友達が多いのだ。外で遊んでばかりいるので、運動はできるがテストの点は良くなかった。でも、だれもがちゃんと義理を通すタイプのいい奴だった。(通すのが正義や大義ではなく、”義理”なのがポイントだ。)
私はガストンがガストンになっちまう”前”の状態を知っているのだ。だから彼が無教養であることそのものを責められない
対して、ベルはガストンを毛嫌いしている。少なくとも同情も理解もしていない。これには年齢差と土地柄が関係している。
ベルはパリ出身のシティガール(村では余所者)で、赤子時代に村に来ている。娘を深く愛し理解している父親(自身も変わり者の評価を受けていて、周囲の批判をものともしない)の庇護のもと、のびのびとその個性を育てた才女である。
対してガストンは地元出身のバラガキだ。ベルの幼女時代に少年だった程度の年齢差があり、知能については幼女のベルの方が少年ガストンを追い越していたことが容易に想像できる。さぞかし尊敬できないだろう。
外枠だけ見れば、シティガールの行き遅れ(20代前半?)と傷痍軍人(28~30代前半?)だ。村人たちがカップリングとして推すのもまあ、分からなくもないが、当のベルは自分より大人なはずのガストンが、こんなに教養がないことについて理解ができないし、しかもガストン本人にその自覚もなく、また非常に自己中心的な性格をしているので、刺さらない口説き方ばかりしてくるのだ。もういっそ共感性羞恥で死にたくなるし、こんな最低な男がパートナーとして自分を選ぼうとしているなんて身の毛もよだつ恐怖だ。釣り合うものとして考えられているだけで心外だし屈辱である。バカにタゲられると、自分もバカだと言われたような気がしてものすごく怒りがわいてくる…とまあ、悪口ならいくらでもいえる。かわいそうに、ベル。

実写版でガストンと会話した後いやそうな顔をしているベルのスクリーンショットです。
まあ、こんな顔にもなりますわ。

うーん、ガストンに同情する私、趣味が悪いと言わざるを得ない。でもなあ、顔と声がルーク・エヴァンズで歌がうまくて筋骨隆々で金があるからな…多少バカでもなあ…教養はつければいいからなあ…。
まあでも、趣味が悪いな、うん。
まとめ⇒違和感を感じる自分も多少偏っている。

Ⅴ.結論:アウフヘーベン

ま、何が言いたかったのかというと、いろいろな文化・偏見があるわけだから、異文化圏で作られたものについては自分の偏見を客観視し、また異文化圏の偏見を理解したうえで鑑賞することが大切だよと、そういうことが言いたかったわけです。

隣接する色によって同じ色が違う色に見えるムンカー錯視の画像です
二つの●は実は同じ色だったりする。

と、こんなことを思った2021年だったのだ。
当たり前のこと1万4千文字もかけて言っちゃった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?