見出し画像

2022年5月1日(日) 「親密さ」「カモン カモン」

朝起きて、本当はジャック&ベティでやっている柳下美恵伴奏のルビッチ「陽気な巴里っ子」に行こうとしていたのだが、目の前で電車を逃し、上映時間に間に合わなくなる。

映画が観たいので、さて何を観ようかなと思う。久々に映画機運だったし、今日はファーストデイだったので3本くらい観れるな〜という気分だったので、映画.comを開き上映情報を見ると、横浜シネマリンで「親密さ」がやっているではないか。

いまここで見るときだと思う。「親密さ」は以前、阿久津さんからDVDを借りて小さなテレビ画面で観た限り、劇場スクリーンで観る機会がなかったのだ。とても良かったが、ほとんど具体シーンの記憶もなく、その後「親密さ」がメンションされる度に見直したいなと思っていた。

15:40から休憩を挟んで4時間半の上映だったので、それまでにもう一本観れるなと思い、kino cinema横浜みなとみらいで「カモン カモン」を観ようと思い、桜木町からとぼとぼと歩く。

途中雨が降ってきて、傘を持っていなかったのだが家に帰ればかっこいい折りたたみ傘があるわけだし、ビニール傘を500円出して買うのが許せないケチ根性で雨に降られながら歩く。

kino cinemaは初めて来たのだが、たまに行くスタバ併設のTSUTAYAの上にあって、あ、ここにあったのかと驚く。認知してないと気づくのも気づかないもののよね〜認知大事なんてことを思う。チケットを買った後、半券サービスがあるフレッシュネスバーガーで軽くランチを済ませる。フレッシュネスバーガーは相変わらず美味しくて、1年に1回食べるかどうかなのだが、全幅の信頼を置いている。

さて、「カモンカモン」。割と白黒で語り口も緩やかなので、ただでさえ白黒の映画は眠くなるし、これはどうだろうという気持ちになるが、旅をしはじめたあたりからぐんぐんとのめり込んでいく。

僕たちの記憶は薄れていく。ホアキン演じるジョニーが、子供のジェシーに言ったように。あんなに笑ったり泣いたり、幾多もの人々と語り合った旅の記憶も薄れていく。旅で出会った人たちの顔はぼんやり覚えていても、名前はもう覚えていないし、何を話したかも覚えていない。

だから日記を書くのかなと思う。日記を書いたことは、後で読み返すと、そのシチュエーションとともに一言一句思い出せる。彼がマイクで録音することを好きな理由が、「平凡なことを、不滅にするために」と言っていてすごく良い言葉だなと思う。平凡なことだらけの僕らの人生はふと気づくとそのほとんどの記憶はおぼろげになっていく。記憶するために記録するのだ。

上映が終わり、スタバでバナナクリームドーナツを食べながら少しさぼっていたnoteを開き日記を書く。

あと「カモン カモン」の中で、子供たちのインタビューを重ねる中で、子供なのにこんな問いをぶつけられてもしっかりと自分の考えを言うことができて立派だなあと思う。自分が同じくらいの年齢だったときに、こんなに立派に回答できただろうか、と思うと無理だろうなあと思う。

子供たちの中には「自分が世界を変えられる」と信じている人もいれば、そうでない人もいる。僕は子供の頃から「自身が世界を変えられる」可能性を感じたことはない。そこまで自信を持っている人はすごいなと思う。

ただ、来るべき世界が嫌だなと思ったら、その未来をほんの少しだけでも来ることを遅らせようとすることに力を捧げたいと思う。「ドント・ルック・アップ」で落ちてくる彗星の角度を少しでも変えようと努力するような、その努力は結果として無為になったとしても、それでもストラグルするような、あんなイメージ。

自分自身で世界は変えられなかったとしても、自分がどんな未来に与するのか、それだけは自分で決めたいなと思う。


上映後、スタバでぐっと集中して日記を書き、Apple Watchのタイマーがそろそろ出る時間だよ、と知らせてくれたので店をでる。Apple Watchのタイマー機能は非常に便利で、先に出る時間を決めておいたら、あとは時間を気にせず集中できるのでヘビーに使っていて、この機能とsuica機能だけでApple Watchは私の生活にとってなくてはならないものになってきている。

また雨に降られながら、今度は伊勢佐木町に移動。少しまだ時間があったので、ファミマで長期戦に備えるために栄養ドリンクと、ブックオフをさらっと物色。ケン・リュウの短編が揃っていて、「ハーモニー」を読んでいてSF機運なので、わ、と思い「もののあはれ」を購入。未読本が貯まっていくのにどうしても買ってしまうことをやめられない。

いざ、「親密さ」。

雨の中劇場で、「親密さ」くださいというと、なんだかシネマリンのスタッフもなんだか嬉しそうだ。4時間以上も上映時間のある映画を観に来るという覚悟を持った集団だ。この感覚は「アネット」を観にいったときの角川シネマ有楽町にも感じた。表情と言葉尻でわかる親密さ。

観客にも、勝手に親密さを感じている。一緒に、4時間以上の空間に無言で座っているのだ。
「親密さ」の中における舞台劇を見れば、我々観客も含めてひとつの作品を作り上げていることは容易に気づく。そうしないこともできたにも関わらず、あえて舞台を裏から撮ることで観客ひとりひとりの真剣な瞳を映す。ほとんど呼吸すらしていないように見える。「いま私たちはとんでもない瞬間を目撃している」という表情だ。それは、1999年、六本木コアではじめてTha Blue Herbを目撃してしまった観客たちのそれと一緒である。

劇中劇というアプローチを頻繁に用いる濱口さんはこのことに極めて意識的なんだろうなと思う。ここからが舞台で、ここからが座席という境界線が曖昧にされるように、観客も含め、俺らで作ってるんだ、という感覚を持ち劇場があって、映画があってよかったなと思う。

私の大好きなこちらの文章でも言及されるように、親密さの主題があるとすれば、“わたしはわたしであり、あなたはあなたである”、が繰り返し描かれる。ふとすると簡単に忘れがちな、こんな当たり前のことを、濱口竜介が「親密さ」における登場人物に語らせる台詞を通して、観るものに投げかけられる。その問いを通して、わたしはどうなんだろうかと思考し、繰り返すことで徐々に「わたしの輪郭」を浮き彫りにしていく。

ふと阿久津さんからの、手紙を思い出す。「自分は言葉の力を信じているし、言葉を尽くすことしかできないから、この手紙を書いています」、手紙はこんな言葉からはじまる。

私の薄れかけた記憶は、いまも大切にとってある手紙というかたちを通して、いつでも「親密さ」を取り戻す。

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?