書評 合気道修行(塩田剛三)

初めての書評でございます。どうぞ皆様温かく見守ってくださいませ。

さて、記念すべき初の書評する本は「合気道修行」(塩田剛三著)です。

合気道って何?

まず、合気道を皆さんは知っていますでしょうか?

「なんだか「気」を使って、相手に触らないで投げるんでしょ?」

「相手の力を利用して投げるんでしょ」

「天地と一緒になるっていう、スピリチュアル的な武道?」

どれもある一面では正解です。なぜか。それは、ある一人の達人の印象によるものです。

その人の名を、塩田剛三と言います。

塩田剛三って誰?

塩田剛三先生は、合気道という武道を修めた人で、身長154cm、体重46kgという小さい体でありながら、大きな人を軽々投げ飛ばし、その技のキレ味から「現代に生きる達人」とも言われた人です。

この人のエピソードを紹介するときりがありません。ですので百聞は一見に如かず。塩田先生の妙技をご覧ください。

本当にこんな感じで人が倒れるの?などの疑問がわくでしょう。それは書評とは違う話なので深く話しませんが、自分の体験から言えば、倒れます。とりあえず塩田先生は凄い人なんだ。実際に映像が残っていて、実際にやられた人がいるんだ。フィクションの世界の住人じゃないんだ。と思ってください。

そんな達人が生まれたのは大正4年、1915年の事です。16歳で講道館柔道3段を得て、少々天狗になっていた塩田青年は、1932年、満州国が建国され、5.15事件が起こり、ロサンゼルスオリンピック(1932年)が行われた年、合気道開祖・植芝盛平に対し「インチキ武術家の化けの皮をはがしてやるつもりで」(合気道修行より)挑みかかっていきました。

結果「わけもわからず宙に舞わされ」頭から落とされたようで目を回してしまいます。

「小説や講談の中にしかありえないと思っていた武道の妙技が存在する」(合気道修行より)

と知った塩田青年は感動に打ち震え、その場で入門を志願。1932年5月23日の事でした。

大陸雄飛の夢と、日本の敗北

そんな達人・塩田剛三の青年時代の日本は、満州国建国に代表される、大陸利権をどうするかが一大テーマでした。今の私たちなら中国に進出するのはやめたほうが良いとしたり顔で言えますが、当時の人たちはそうではありません。塩田青年は「大陸雄飛の夢を持って」いました。

軍属になり中国、台湾、ボルネオ島などに派遣され、各地で軍務(日本語教育だったり食糧増産だったり)を行い、なかなかの羽振りだったのですが、戦局が悪化するにつれ下向いていき、負けてからは収容所で捕虜生活を送り、ボロボロになって帰国します。1946年5月23日。奇しくも14年前、植芝盛平先生に鼻っ柱を折られ、合気道に入門したのと同じ日でした。

夢破れ日本に帰ってきた青年は、色々な仕事をしますがうまくいかず、1947年には6歳の長女を疫痢でなくし、どん底に落ちます。

それでも元からの人柄か、または後に本人が言う「合気即生活」の極意をこの頃から行えていたのか、戦後の灰の中でも節を曲げず、数多くの人の助けを受け、養神館合気道を設立し、それから逝去する1994年まで、約60年間合気道修行を続け、現代に生きる達人と呼ばれる事になるのです。

合気道、ひいては武道を学ぶ意味

子供に武道を習わせると良いと言われます。理由は礼儀を学ぶことができる。姿勢がきれいになる。痛みを知るから優しくなれる。体を動かせて健康になる・・・などなど、いろいろメリットがあると言われています。

でも、なんで礼儀が必要なのか。なんで姿勢がきれいになるのか。なんで痛みを知ると優しくなれるのか。そしてそもそも、なぜ武道を習うとそうなるのか・・・という事を、合気道の稽古、塩田先生の体験などの実例を挙げて、そして何より平易な言葉で説明してくれています。

合気道とは、強さとは、「和」とは、修行とは、、、そして昭和の栄枯盛衰をその身で体験し、天国も地獄も実際に見た達人がたどり着いた「合気即生活」の境地とは・・・。

大正に生まれ、戦前の空気のもと青春をすごし、生涯を通して合気道を学び続けた達人の言葉は、時代を超えて僕たちに「相手と和する」ことの意味と意義を教えます。難しい言葉ではなく、実体験に基づく事実として。

興味がわいたら、是非読んでみてください・・・とまとめようと思ったら、新刊がなくて中古で2400円!? うーん、図書館などでどうぞ・・・?

おまけ

この本の挿絵は「グラップラー刃牙」などでおなじみの「板垣恵介」先生です。どこでだったか、そもそもこの本の編集をしたのが実は板垣先生で、挿絵まで自分で書いた・・・と聞いたか読んだかした記憶があります。そんな珍しい一冊でございます。

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