結局、どっちが勝ったんだっけな。/ 斉藤和義「ウサギとカメ」 【Gotanの音市場 #1】
結局、どっちが勝ったんだっけな。
結局最後はどっちが勝ったんだっけな。
柔らかい胸の中で一度は聞いたであろう「ウサギとカメ」。
イソップ物語で語り継がれる、いわゆる「油断大敵」を体現した物語。
地道に進むことの大切さや、余裕を見て油断していると痛い目を見るという教訓を、子どもながら素直に受け止めていた。
最後まで油断してはいけない。
だから負けていても最後まで諦めては行けないとも受け取れる。
………そもそも、勝ち負けってなんだ?
小学生の時、この曲に出会った。
「やさしくなりたい」のカップリングに収録されているLive音源で知った。(原曲の方がテンポ感ほんのちょっとゆっくり目で好き。)
この頃から割と落ち着き目の曲調を好んでて、結構耳に入りやすかった。
それ以来ずっと何故か心の中に残り続けている。
高校生の時、久々に聴いた時に何故か泣けた。
当時の自分は何事も上手くいかず、学校にも行きたくない、部活なんてもっと行きたくない、勉強もだめ、何をやっても思い通りのものにならない、ただ過ぎて行く日常をこなしていくだけの日々だった。
そんな時に、久々この曲がシャッフルで流れてきて、この曲と出会った時とは違う景色を見て、自然に涙が出た。
特にサビ。
本当は、自分の思い描いている世界にいきたい。
何事にも干渉されずに、自分の思い通りにやっていきたい。
でも今は、誰かが勝手に決めた道のりで、力で、進むしかない。
宝物さえ見つかれば、自分は思い通りになれるはずなのに・・・・。
昔から静かな負けず嫌いで、とにかく一番を取らなければ気が済まなかった。
新しい環境で、これまで築き上げてきたと思われた礎が砕け散った。
自分が求めているものが何かわからなくなった。
それ以来、自分の努力を信じることをやめた。
それはそうと、今回記事にしたこの曲だが、ちょっと気になる点があった。
ウサギなのかカメなのかどちらの描写なのか。
2Aメロを入れた理由は何か。
なぜ、「結局どっちが勝ったのか」わからないのか。
順を追ってここに記したい。
ウサギなのかカメなのか。
童話のうさぎとかめは、山のてっぺんまでかけっこをして、うさぎが山の真ん中で寝てしまう。一方のかめは最後まで諦めずに歩き続け、ウサギを追い越し先にゴールインする。「慢心」や「油断」の情景を思い浮かべやすい。
ただ、この曲のMV(特に2番)や歌詞を見てみると、そんな教訓が垣間見えるような曲ではない。
読解力がないだけかも知れないが、この場面ウサギ視点ならば、「慢心」が見えなかった。「紙テープはもう切れてる」とは、童話の見解からするとウサギがゴールした時には先にカメがゴールしてる、という情景を表していると思う。ただ、ここの歌詞からは「初めはめちゃくちゃ勝ってて、慢心して休んでたら、ゴールした時には負けていた」という情景ではない気がする。
じゃあ、これはウサギ目線なの?カメ目線なの?
わたしは「どちらでもない」と答えると思う。
移り変わりが激しく、勝ち負けの基準も変わってくる。
すると目指しているゴールもやがて変化し、自分が取り組んできたことが違った方向に向いていることを知る。
たまたま流れに乗っていた人に先を行かれる。
目にも止まらぬスピードで、自分のスピードで走れなくて。
辿り着いた先は自分が思い描いている世界ではなくて。
結局私たちは「誰かに走らされている」ことを思い知る。
私たちは、「自らの意思で生きている」か「誰かに生かされている」のか。
「自らの意思で走っている」のか「誰かに走らされている」のか。
受け取り方は人それぞれだと思うし、答えは性格に依存すると思う。
でも意外と、後者に感じることの方が多いなあ・・・・。
ウサギのように、ずっと早いペースで走り続けても報われないことがある。
カメのように、地道に歩みを止めなくても、報われないことがある。
でもその過程は、無駄じゃないことを信じたい。
2Aメロの描写の理由
この部分があったからこそ、「自分軸で生きよう」と思えた。
社会風刺や時代を皮肉っている描写だが、これを13年前に描いている。
「顔のないヒマ人」「名無しの卑怯者」「毒で作るエネルギー」「編集されたニュース」
急に童話がモチーフらしかなるワードが飛び込んできた。
「顔のないヒマ人」がああだこうだいうても、結局は「名無しの卑怯者」になっている。どんなに有益な情報でも「編集されたニュース」となって世の中にわたる。
どんな便利なものに携わっていても、世間体の目が気になって結局「生かされる」生き方になる。
13年も前の曲が、今を渦巻く問題にリンクしていた。
でもこの部分が「ウサギとカメ」とどう関わってくるのか不思議だった。
今も納得できる問題ばかりで、この出来事がどう物語にかかわっているのか不思議である。
ただ一つだけ言えることは、「今も10年以上前も変わっていない」ということだと思う。この表現に共感できるということは、思い当たる節があるということだろう。
「顔のないヒマ人」がチマチマ書き込むのも、「編集されたニュース」が恐怖の雨を降らすのも、今表現していてもおかしくない言葉選びだと思う。
パソコンもケータイも所持していなかった時代、何をして過ごしていたか最近思い返す。
今は部活していたとしても、学校で忙しかったとしても、SNSや動画を見たり、ゲームをしたりしている。
持ってなかった時って、一体何をしていたんだろう。
別になかったからと言って生きにくかったわけでもない。
童話がモチーフのこの曲において、かなり考えさせられる箇所だった。
童話を聴いていた頃は、そりゃこんなこと思っていなかったし。
何も臆することなく、ただ目の前のことに一生懸命になる。そんな童心を思い出すためにも、この表現を入れたのかなと。
意外と変わっていない世間の中で、何を目指して生きて行くべきなんだろう。
どうなったら「勝ち」で「負ける」とはどういうことなんだろう。
なぜ「結局どっちが勝ったのか」がわからないのか
この曲の歌い出しは「結局最後はどっちが勝ったんだったけな」
童話の中ではウサギは山の中腹あたりで休んでしまい、地道に進んでいたカメが先にゴールする。
ただこの曲の中では、ここまで歌詞を追ってきて、「どっちが勝ったのか」わからなくなってもおかしくない。
勝ち負けは時代の流れにより変化する。
昔だったら通用していたものは今通用しなくなることがある。
目指している場所はいずれ変わり、ゴールすら見えなくなる。
いろんな障壁により、「自分」が何かわからなくなる。
世間の流れは目まぐるしく変わっているのに、社会全体の構造は変わっていない。
だから勝ち負けなんて存在しない。
優劣なんてつけるべきじゃない。
「優」と「劣」の両極端が拡散されてそれが目に届くため、その反応数を見て人は思考が止まる。でもそうじゃ生きている心地がしない気がする。
「ウサギ」のように最初頑張って真ん中で休んでという人もいれば、「カメ」のように遅くても地道に進んで結果ゴールにたどりつければいいという人もいる。
そんなの人それぞれだし、自分のやりたいようにやればいいと思った。
最近「劣等感」について考える。
周りが結婚しだし、仕事で昇進したり、自分との差に引き目を感じる。
自分はこのままでいいのだろうかと考えることも多い。
この劣等感という感情は、自分軸で考えた時に軽減されるのだろうか。
「ここまでできたからOK」と自分で決めつければいいけど、お金をいただいている以上人が評価をする。しかも時には「顔のないヒマ人」かも知れないし「名無しの卑怯者」かもしれない。
でも、それで自分はダメだなんて思わない方がいいなって感じるなあ。
どうせ勝ち負けなんてその場の基準で定められた評価でしかないし、その経験は財産になる。
世間は目まぐるしく変わるけど、意外と根底は変わんないし、「人生以外とそんなもん」みたいなもち様で最近は生きている。案外、楽だったりする。
ウサギだろうがカメだろうが、結局ゴールに辿り着いてるんだしいいんじゃないか。
いつか辿り着いた先を、自分なりのゴールに作り変えればいいのだから。
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