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氷河期の終わり

就職氷河期。氷河期世代。
このような呼称が生まれ、浸透し、定着し、今なお社会問題としてこの国にこびりついている。
2023年現在、氷河期世代は概ね40代。温暖化による氷河の後退と呼応するように頭髪も後退していることから、これを以て氷河期世代を不幸と見る向きもあるが、本当にそうだろうか。


「氷河」と聞いて、あなたは何を思い浮かべるだろう。
この問いに対し、常人であれば「白鳥座」と応じることはない。しかし、氷河期世代にはかれら特有の応答が見られるという。これは氷河期世代とされる人々がその呼称に違わず氷河や氷河期との間に何か特別な関係を持っていることを示唆する例のひとつだ。氷河期と氷河期世代が結ぶ特別な関係。それを解明するためには「氷河期」へのさらなる理解が必要となるだろう。

改めて氷河期について調べてみると、地球史において我々が氷河期と呼んでいる時代や状況は、「氷期」や「氷河時代」と呼ばれるのだという。
「氷河期」はどこへ消えてしまったのか。氷河期それ自体が存在しないのであれば、連鎖的に就職氷河期も氷河期世代も存在しないことになり、日本国はありもしない社会問題を抱えていることになる。そんな馬鹿げた話があるだろうか。

就職氷河期は、存るのか、亡いのか。
いずれにせよ、すべての物事に機序があるとすれば、就職氷河期の創出に至る契機についても同様に探求できるはずだ。あらゆる歴史上の出来事は、それ以前の歴史の結果であると言える。であればまず、就職氷河期以前の存在が確実視される時代からヒントを探ることはできないだろうか。

戦後の日本を時系列に沿って列挙すると、高度経済成長期、安定成長期、バブル経済期、低成長期(就職氷河期は低成長期に含まれる)と続く。
就職氷河期を迎えるまでの戦後日本経済は基本的に成長路線だったが、これを支え、実現可能にしたのは高度な技術力であることから、この期間を技術の時代と解釈することも可能だろう。
技術とその進歩は人の営みに変化をもたらす。技術が歴史を作るとしても過言ではない。そして、そのような技術の背景にあるのは「想像力」だ。
想像力の産物フィクションから着想を得て遂には実現した技術は数多あり、特にフォン・ブラウンと宇宙開発の関係は好例である。
戦後日本の経済成長もまた、終戦直後の日本においては空想に過ぎなかった「豊かな社会」を現実にした事例と言えるだろう。

虚構フィクションは技術の進歩を推し進め、遂には現実となる。
特に技術分野と親和性の高い虚構として空想科学やSFと呼ばれる分野があるが、そこでは様々な虚構――近い遠い未来のこと、ここやここ以外の何処かで起きそうなこと――が実現可能であるかのように描かれる。
それらは創作である以上、虚構でなければならない。過去に描かれた虚構が現実のものとなれば、以後、それは虚構ではなくなってしまう。人類が宇宙に到達するロケットを製造するに至った時、大砲で月を目指すべきではなくなってしまう。

虚構が現実を作り、現実が虚構を作る。
現実の発達にあわせるように、新たな虚構はその時々の現実の及ばぬ領域に新たに作られる。時折それはあまりの現実味のなさ故に、技術対虚構の終わりなき競争の奔流から外れたところに忘れ置かれるものがある。しかし進歩の流れは水が河岸を侵食するように領域を広げ、かつての忘れ物を攫う時が訪れる。
そのようにして人類史を編む奔流に呑まれた忘れ物の一つが、量子論だ。
量子論に着想を得た虚構はそれまで、あまりにも非現実的とされていた。しかし20世紀後半にもなると、人々はそれらを受け容れられるようになった。その背景には、虚構ではなく現実として向き合った研究者の成果があるのはもちろんのこと、高等教育の普及や、新たな技術を背景にした新たな虚構への慣れていたことが挙げられる。虚構に持ち込まれた量子論由来の様々なアイデアは、この世界への新しい視点を提示し、人々はそれを受け容れた。
この新型の虚構に着想を得た人物が新たな技術の実現を目指すとして、それは不可解なことではない。
ごく自然な成り行きで、人という種に内蔵された虚構と現実の相互参照機関は次なる目標を得た。
量子論由来の虚構が流行り、または再評価されるようになってから、20年ほど。
壮年が引退し、子供が大人になるのにじゅうぶんな時間が経った頃。

遂に、世界を作り変える時が訪れた。
誰かが、世界を変更した。

氷河期は消え、地球史においては氷期と氷河時代で代替された。
氷河期は消え、人類史から就職氷河期と氷河期世代が消えた。

世界は、変わった。

「誰か」による操作は「氷河期」にその痕跡が認められるのみだが、しかし、その痕跡が存在することそれ自体、これが事実であることを示している。

バブル崩壊と、そこから続く不況は変わっていないことから、その技術で変更可能な範囲は極めて小さいのだろう。
そのわずかな機能でできたことといえば「氷河期をなかったことにする」ただそれだけ。

それでもやりたかった、やらなければならなかった「誰か」とは――。
それは「氷河期世代」と呼ばれた個人、もしくは集団ではないだろうか。
「就職氷河期」の消失を心から望んだ当事者ではないだろうか。

既に「誰か」の願いは叶えられた。

ただし、それはこの世界でのことだ。
「誰か」の世界はどうなったのか、それはわからない。
それでも私はその「誰か」に伝えたい。
君は成し遂げたということを、君に伝えたい。

「就職氷河期は無かったし、氷河期世代なんて人もいません」




繰り返しになるが、氷河期は、消えた。

氷河期世代(いません)に該当しない読者には――いや、当の氷河期世代(いません)にさえ――出来の悪い冗談としか受け取られぬであろうことは容易に想像がつく。

だが、事実だ。

氷河期世代(いません)を正確に言い当てた言葉は、既に存在する。
ロスト・ジェネレーション失われた世代、だ。
これは、我々が消えゆくさまを観測した者が過去に存在したということの証左に他ならない。

間抜けな我々は自らについて「氷河期世代ロスジェネ(いません)です」と、つまり「わたしたちは存在しません」と、無自覚ながら事実を表明していたのだ。わざわざ、ダブルミーニングで。

再確認しよう。

氷河期世代わたしたちは、いません」

日本国に我々の問題は存在しない。
現在若者である君たちには、明るい未来が待っている。
君たちの人生は、これから上向く一方だ。
なにしろ、問題氷河期は、もう無いのだから。

最期に、氷河期世代(いません)にはおなじみの歌を聴きながらお別れとしよう。
1990~2000年が就職氷河期(ありませんでした)だとすれば、そして、本稿において就職氷河期(無い)が存在しないことが明らかになった今、就職氷河期(なぜか変換できる)を締めくくるには、この曲を置いて他にない。

なお、歌詞にはこんな一節がある。

人は氷ばかり掴む

作中では掴まれた氷のその後については触れられていないが、その結末は明らかだ。

氷は溶けて氷ではなくなり、こぼれ落ち、乾いて消える。

私も自分がここにいないことがわかった今、消えるとしよう。
氷河のように。毛根のように。