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がらくた宝物殿、第1部おわり。

2020年1月18日(土)福岡市の大名というそれはそれはオシャレな街にあるギャラリーで演劇を上演しました。「イッテルビウムとがらくた宝物殿 新春怪奇コント祭り『ちょっと人面犬』」と題された公演。イッテルビウムという演劇ユニットとの対バン形式の公演でした。コラボとかコントとかうたったので公演自体にはイロモノ感が漂っていたかもしれませんが、がらくた宝物殿はここで結構重要な作品を上演しました。したつもりです。

がらくた宝物殿が立ち上がったのは2017年のこと。福岡学生演劇祭という学生演劇の大会に出ようと私が何人かを誘ってはじまりました。当時私は大学4年生。演劇部を引退した翌年、台本を書くのも演出をするのもろくにやったことのない中、友人や後輩たちを誘ってわいわい稽古をしたのを覚えております。それから2年半ほどが経った2020年1月18日、がらくた宝物殿名義では5・6本目となる作品を上演しました。そして、これはすてきな友人たちと一緒に劇を作れる最後の機会だったかもしれません。

誰も興味がないかもしれませんががらくた宝物殿とは何だったかについて思いを馳せながら、今回の公演を振り返っておこうと思います。


「団員」

劇団には、団員というやつがいます。演劇ユニットを名乗って主催が1人いるだけ、毎回異なる客演を招いて公演を打つというパターンも時々見かけます。がらくた宝物殿は圧倒的に後者に近いですが、厳密には違います。こういうただし書きみたいな書き方をする時は、大抵は自分たちの偉大さを示すような文が後に続いていくのでしょうが、今回はそうではありません。

私には、自分がおもしろいと思った劇でお客さんにめちゃくちゃ感動してほしいみたいな欲はあまりありません。代わりに、なのかどうかはわかりませんが、出てくれる人がやりたくてしょうがなくなるような劇をやりたいという欲望はめちゃくちゃあります。そして、それをお客さんにもおもしろいと思われたいという欲も結構あると思います。「それぞれがおもしろいと思えるものをおもしろいと思いあいながら何か一緒に形にしていく」というのをやりたいのです。
これは偏見かもしれませんが、演劇ユニットを名乗ってオーディションで客演を募る場合、おもしろさを共有することよりも演劇を上演することの方に重要さが傾いてしまうのではないかと思っています。少なくとも、私がオーディションで役者を選んで劇をするとなると、パニックのあまりそうなるでしょう。「演劇をしたいね」よりも先に「おもしろいね」がある関係じゃないとやっていけないのです。

劇団にある、団員というシステムには憧れます。常時複数人がおもしろさを共有し、おもしろいを形にするために奮闘する……めちゃくちゃ羨ましいです。しかし、私は現状がらくた宝物殿を劇団にはできません。劇団は、劇をするための団体です。団体が存続するかぎりにおいて上演は義務のようなところがあります。その義務の歯車がいつの間にか互いのおもしろさへのリスペクトを無視して回っている、そういう可能性は常にあります。私は、好きで一緒にいてくれる人たちとしか劇をしたくないのです。


「がらくた宝物殿」は、上記のようなハイパーわがまま人間の理想世界です。しかし、現在あるがらくた宝物殿は、完全な状態からはまだ遠いですし、このまま完全を目指して突き進むのが正しいかどうかについては、わずかながら常に疑いの目も向け続けています。
本当にすてきな方々と劇を作る度に、すてきな方々の時間を奪っていることを申し訳なく思ってしまいます。「断ってくれて全然いいので!」と言ってはじめお誘いするわけですが、誘いが来るだけで多少精神に負担をかけてしまっているだろうとも推測します。せめて彼らの大切な時間を無闇に消費するのではない最高の作品で答えねば、と意気込みますが、まだまだその域には達せていないし、達したとしても自信満々に巻き込んでいいというわけではないでしょう。楽しい稽古場にしよう!と思っても、それぞれにしんどい思いもさせてしまいます。

今まで巻き込んでしまった皆さんには、ほんとに感謝してもしきれません。嫌なわがままを重ねますが、今後ともご縁がありますことを願ってしまいます。皆さんいたい時にいてくれるといいな、そういう環境でありたいな、と思っています。

そういう事情により、がらくた宝物殿には「団員」というやつはおりません。劇を作る以上完全にしんどくなくなるのは無理かもしれませんが、その上でいたい気持ちが上回るような、そしていたい時だけいていいような場にしていきたいです、がらくた宝物殿。


ゾンビがなかなか死なない

2017年、夏。学生演劇祭という大会で「ENCLOSURE OF THE DEAD」というゾンビものの作品を上演しました。ろくに劇を作った経験のないまま、カンと勢いと出演者たちのおもしろさで乗り切った作品は、それはそれは粗い作りでした。が、粗いくせにこいつがなかなかクセモノで、その後どんな劇を作ってもこいつの影がチラチラしてくることになります。なんか知らんけどおもしろいんです、この作品が。出てくれた人たちは確かにおもしろいので、劇がおもしろいことに不思議はないのですが、それにプラスしてなにかがおもしろいのです。

いや、世間の皆様はそんなにおもしろいと思ってもいないかもしれませんが、少なくとも私にとっては常にこいつが立ちはだかる壁でした。

2年半の時を経て、2020年1月の公演でようやくこいつを乗り越えられた気がします。

抽象的な言い方になってしまいますが、ゾンビの時には演劇よりも先に「おもしろさ」があって、それを追い求めていた気がします。しかしそこでほんの少しですが演劇的によいという評価をいただきまして、以降の作品には演劇であることが先に立とうとしていたんだと思います。
今回の作品は、2017年の夏以来、演劇よりも「おもしろさ」が先にいた気がします。出てくださったおふたりのおもしろさを最大限に活かしていただこうと真剣に考えましたし、これまでに溜まっていた演劇の壁を越えられなかった「おもしろさ」のネタも恐れずに台本に入れました。そしてその結果、2017年の夏以来、作品がちゃんと演劇になったと感じました。
しかも今回は、今後この作品が呪縛になる予感がしません。むしろ、こういうやり方で劇を作るのがよいのではないか、という指針を得た気がします。


1月上演作品について

観ていただいた方はありがとうございました。がらくた宝物殿は1月の対バン公演「ちょっと人面犬」で2本の作品を上演しました。

•がらくた宝物殿メルヘン・ゾートロープ④「生産性が全くないやい」
•がらくた宝物殿メルヘン・ゾートロープ⑥「深すぎる穴は空中と同じ」

どちらも、お茶漬けの素の中身を仕分ける会社での日常を描いた作品でした。観てない方には、なにを言ってるんだという設定ですね。この作品にはふたりの役者とふたりのスタッフが協力してくれました。


衛藤くん

役者をしてくれました。頼もしい、たくましい。カバーできるというか、受け入れられる笑いや思想の範囲が広い人だと思います。未知の笑いにも一旦飛び込んで全力でやってくれるのが大変ありがたかったです。私の知らない引き出しをたくさん持っていそうで、台本を書いた時に想定していたものよりすてきな雰囲気に劇を方向付けてくれました。
色んなコンテンツに対して正直に感想を述べられるところも大変尊敬しております。あと色んなもの見て全部身になってるところもすごいです。


本田さん

役者をしてくれました。おそらく稽古外でもおさらいしてくれていて、稽古の度に演技がよくなっていく人でした。それだけに、大切な時間を割かせすぎたのではないかと心配でもあります……。演出にも色々ご意見いただきありがとうございました。
本番付近では私のポンコツさを完全に見抜いて小道具の出し入れにも気を配ってくださいました。ほんとにすみません。
大変おもしろくて鋭い人だと思いました。治安のいいところに住んで好きなことをして生きられるといいなと私は勝手に思ってます。あ、あと飼ってる猫かわいい。


ノキくん

だいぶ直前のお願いだったにもかかわらず音やら照明やらの操作を覚えてやってくれました。めちゃくちゃありがとうございます。その他も当日のあれこれで走り回ってくれました。
かわいい箱を何の躊躇もなくゴミ袋に入れられそうになって困惑しましたが、そういうところもおもしろいので好きです。


けいたろう

こちらも直前のお願いにもかかわらず記録映像を撮ってくれました。めちゃくちゃありがとうございます。知らん人だらけのところに急に放り込んでごめんなさい。
荒波に揉まれてもピュアさを失わないで〜。



PEANUTSをやるとか未来の笑いをやるとか言い出す演出に皆さんつきあってくれて、思い出すと泣きそうになります。こういう演劇を観たかったしやりたかった、というのをたくさん実現することができました。
しんどいことも多かったでしょうが、僅差でも楽しさが勝っていたらいいな。将来皆さんの人生に劇をする余裕があったなら、また一緒にやりたいです、私は。もちろん、その時そういう気分じゃなければ断って大丈夫なので!

私は、もっと皆さんが出たくて仕方なくなるような劇を書けるようにならねばなりません。今後もがんばります。


演劇のいいなと思うところ

今作の稽古を通して演劇についても色々考えさせられました。
演劇の本当にいいなと思うところは、個人の切実な思い自体が尊重されるところです。デザインやアートと違って思いを思いのまま強度をもってやりとりし合えるところが本当にすてきで、危険なところだと思います。

特に思いを扱う場合には役者の心身の安全を確保する義務が作家と演出家にはあると思います。
言うのがストレスになることを大声で言わせるのも、フィクションのキャラクターではなく演じる人自身の言葉としてなにかを言わせるのも僕にはできないなと思いました。

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