通訳者のこと。

 大学教員になる前は、某友好団体に勤めていた。一応修士の学位はとっていたので、前職での通訳者としての実務経歴と併せて大学に勤めることになった。けれど、ある時期から流行りの実務家教員とも一端の研究者ともいえない立場に自分は一体何者?という不快感に苛まれることになった。それから関西の某大学の博士課程に在籍し6年目、今年は博論を出せそうかな、どうかな、というところにいる。
 大学教員になったばかりの頃、通訳学校時代のクラスメートに「競争も何もなくていいですね」というようなことを悪意なく言われた。それ以来、その集まりには適当な理由をつけて参加しなくなった。カチンときたのが一番だ。通訳者は一番苦労してるとでもいいたいのか、俺が楽をしたくて大学教員になったとでも思っているのか、という気持ちになったからだ。今はどちらかというと、まあそうですよね、競争ってのはないですね、やらされる仕事というものが少ない、という意味では確かに楽ですしね、と思う。集まりにはやっぱり行かないけども。
 実をいうと、前職の頃から通訳者という職業の人はあまり好きではなかった。特にフリーランスでやっている人は、なぜか根拠のない自信を振り翳してくるというか、ナメられまいとして虚勢を張っているようにみえる人が多く思えた。もちろんみんながそうではない。でも、偏見が過ぎるかもしれないが、どちらかというとキャリアの浅い、大して仕事も回ってきてないだろうと思われる人や実力に自信なさげな人の方がそういう傾向が強いように思えた。だから、どうしても、何かの裏返しなんだろうな、あの態度は。と思うし、それに気がつけないで喚き散らしているような様は恥の上塗りのような気がしてなんだか可哀想に思えた。
 誤解のないようにいえば(誤解とはいえないかもしれないけれど)、そう思うのは自分にも思うあたる節があるからだ。自分はフリーランスではなく、一友好団体の職員として通訳をしていたし、事務所に通訳はほぼほぼ自分一人だったから、フリーランスの人よりも実践を経験する機会に恵まれた。修士課程を修了して就職した翌年には団体の会長だった詩人のT氏について中国に行き、大臣との会見で通訳したり、財界のお偉方にくっついて行ったりした。再生医療の通訳も早くから任されてたくさん経験した。そういう「誰の」「どんな通訳」をしたか、というのは、密かに通訳者の自慢だったりするわけだ(ベテランならそんなことはないかもしれないけれど、20代の駆け出し中の駆け出し通訳者にはそれはもう興奮の種だった)。実際は、そんなことは問題にしてはいけない。大事なのは自分がその一瞬を最大限の力を尽くして通訳すること、そのための事前準備を「プロとして」こなし切れるか。それだけが大事なのであって、上述のような浅ましい喜びはミーハー以外のなにものでもない。でもまあ、若い頃はそういうものも自信やモチベーションに繋がるのならいいのかもしれない、と、今は思う。実際、自分はそういった「輝かしい実績」を一覧にして、修士修了でしかない大学教員としては乏しい履歴書の穴埋めをしたのだ。
 裏を返せば、通訳者にはそれぐらいしか他人に誇れる形あるものがないのだ。どんなに自分の実力を磨いて、どんな話者にも対応できる幅広い知識を蓄え、語学力を磨き、人柄を取り繕おうと、与えられ得る最大限の評価は「よくやってくれたいい奴」ぐらいにしかならないのだ。だから、我慢できない人は自ら自慢する。俺、こんな偉い人の、こんな凄い場面で、こんな難しいシチュエーションの、こんな難しい表現を、通訳しましたよ、と。自分の口で言ってしまう。誰も褒めてはくれないから。そしてそれは、この上なく卑屈で人の目ばかり気にするカッコつけの僕には酷く浅ましくダサい行為に思われた。まあ、それでも一覧にして履歴書に付すという一番大事な場面でそれをした僕は一番姑息で浅ましいかもしれないけれど。
 何かの裏返しなんだろう、と言ったのは、つまりは自分にはそういうふうにみえるということで、身も蓋もない言い方をすれば承認欲求の捌け口が通訳者にはないということなんだろう。そんな奴は通訳者には向いていない、と思う人もいるかもしれないが、実は通訳者にはある種の自己顕示欲のようなものも必要で、「私をみて!」という大胆さが現場で瞬発力を発揮するなかで日頃の学習以上の表現力に繋がったりすることもある。だからまあ、上述のような浅ましさはいい通訳者の必要悪みたいなものかもしれない(決して自分がいい通訳者だと言いたい訳ではない)。
 通訳者は専門職とはなり得ない。それは上述のように、形ある成果を残せないからだ。弁護士や医者とは、やはり違う。
 こんなことを過敏に思うのは、自分のかつての指導教官のせいかもしれない。その人は日中通訳の世界では名の知れた人で、通訳者を専門職として確立させたいと思っているようだった。いや、というよりは自分の系列の弟子をひとつの流派のようにしたいと思っている節すらあった。そういう人のもとで教わった経験のせいか、いつからか反発するようになり、「北京で通訳コンテストが開催されるようになった」とその人の奥様から聞いた時に「そういうのって、比べて順位つけるようなものですかね」と率直にぶつけてしまった。奥様は困ったような顔をして「どうかしらね」と濁した。もう亡くなってしまった指導教官だが、なんとなく目をかけてくれていたような気がする。同時に、私のことを指して「あいつは周りの思い通りに動こうとする奴じゃない」とも言っていたことも人づてに聞いたことがある。そういう意味では自分のことを一番理解してくれていた他人だったと思う。そして、その人の見立て通り、自分はこの文章でも反旗を翻している。

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