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我楽多物語 その27「苦い酒」

今回は文章が少しくさいです。
くさいですが、当時の私の心の描写でもあります。
あんなに苦い酒を今後飲むことはないでしょう。

ブームが終わった

当時の上海はボウリングブームの終わり頃であった。
私がいたボウリング場は計画より約2年も遅れてのオープンだった。
上海市でボウリングが流行したのは1995年のことでオープンは1997年。
私たちがなんとか開業した頃には完全に良い時期は過ぎ去っていた。
オープン直後は1ゲームの値段が日本円で500円ほどで、当時の上海の物価からすればなかなか高額な遊びだった。
しかしオープンからたった8ヵ月後には次々とボウリング場も建てられ、ダンピングのあげくに1ゲーム150円にまで落ち込んでいたのだった。

撤退

そんな状態で会社も我々日本人の給料を払いきれなくなってきたのである。
アホアホマンは一番の高給取り。
しかし会長の息子なので帰る事はない。
ある日、残りの3人のうち誰か1人がまず帰国し
その後様子を見て全員撤退するかどうかを決定する
という話が一方的に告げられた。
というわけでアホアホマン以外の
ミステリアスマン、弱井さん、私の3人で仕事が終わった夜中に
バーで話し合う事になった。
話し合う前から私は既に決心していた。
という事で話し合いが始まってすぐ
「俺が帰ります。同族経営で非常にやりにくいし長い会議もうんざりなのでちょうどいいですよ。」
と2人に言った。
ということで、とくに引き留められるわけでもなく決定したのだった。

転職活動

実はこの少し前から経営状態を見て
先は長くないと思っていたので転職活動をしていた。
この時点ですでに日本の別の企業に採用してもらう話をつけていた。
そして何より私は24歳で若かったので
いくらでもやり直しのできる年齢だ。
他の2人は30代と40代でたった8ヶ月の滞在ごときで
帰国させては将来に影響すると思った。
私が帰るのが丸く納まるのではないかと思ったわけである。
話が終わったので2人は帰り、私はその場で1人で飲んでいた。
そしてふと横を見ると元ヤン社長が近くの席にいたのだった。
彼は「いっしょに飲もう。」と俺のところへやって来た。
そして場所を変えようと言う事になり
トカゲちゃんのいるスナックへ行くことになった。

しんみり

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