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ノベライズ_panpanya『蟹に誘われて』 白泉社.より『蟹に誘われて』_text

住宅街の曲がり角で蟹と出会った。

T字路に差し掛かったとき、縦の通学路が横の知らない道と直行する交点に落ちていた。路上でこんな生き物は見たことがない。一匹でじっとしている。

その日、いつもの通学路で帰宅の途中だった。幾多の脇道があることを僕は時々思い出す。どこに続いているのか知らない道ばかり。なぜなら全く用がないからである。

形からタラバガニだろうと思った。甲羅が茶色だからおそらく生きているかもしれない。未知の落とし物が蟹だとわかると、今度は、高級な食材が目の前に落ちている事実にようやく意識が向いてきて、晩のおかずにしよう、と僕は考える。

知らない道へと横向きに蟹が動き出す。下りの階段になっていて、落ちるように遠ざかっていくのを、走って追いかける。

「はじめてくる道だ」と僕が声に出すのは弾む息を整えるため。蟹の足が思ったよりも速い。坂道を駆け下りていく。家からどんどん離されてるな、と思う。この街は、すり鉢を半分に割ったようなかたちをしていて、底の海から山に向かって登るのが僕の家路だ。すり鉢にとりつく路地の網目がどこまでも広がっていて、この街はあみだくじに似ている。斜面を最小のじぐざぐで往復するのが通学路で、寄り道は必ず上りか下りになるから、あまりしない。「どこに通じているのやら知ったことか」近所ではあるが蟹のせいか、とても新鮮に感じる。

コンクリートの階段を降りたところで蟹が動きを止めた。一人分の幅で七段しかない。私道に来てしまった、と思う。この階段は他人の持ち物だ。ようやく追いつくと、八本ある脚の何本かが側溝に引っ掛かっている。

「あっその蟹」と声が飛んでくる。冷たい甲羅を持ち上げ、捕まえた矢先だった。声の主がこっちに向かってくる。長靴の音がする。「ああ、やはりうちのだ、捕まえてくれて有難う」とタモを片手にゴムのつなぎを着た男が言う。そこは鮮魚店の目の前だった。品物が逃げ出してしまってね、探していたのですよ。生きが良すぎるというのも考えもんですねえ。

蟹の脚には店の商品であることを証明する「油壺港ズワイ」と書かれた青いタグ。こいつ、ズワイガニだったのか。

その日の晩、カニ鍋を食べながらこの日記を僕は書く。ズワイガニの脚は、半生で甘くとろけてしまった。僕が店員と交わした取引き。魚屋に「買う」と一言申し付けたにすぎない。いくらだい、と聞くと八百円です、と魚屋は応えたが、安すぎると今でも訝しむのです。

~Fin~


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