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保守的な人生論

新聞の新刊本広告のコピーに「新しいことを学び続けなければ、社会の害になる」というフレーズがあった。
皮肉的に見れば、学ばなくても、社会的に閉じこもり閉塞していれば害にはならないのではないか?とも考えたが、それ自体、いろいろな意味で社会的には存在しているので、害といわれればそうかもしれない。

常々、「高齢者は社会的に老人化されている」と考えているので、それにこじつけて考えてみる。
一年生が二年生になったからといって、賢くなるわけではない。学ぶこと、経験すること、考えることなどを通してしか成長はできない。だからその行動の量と質によって、急な成長は実現する。体力、運動能力も同様で、適切な環境のもとでのトレーニングを重ねてこそ、向上する。それだけではなくて、栄養価を考えた食事、良質の睡眠、野心的な計画、ストイックな努力、といったより幅広い要素がそれらを支えている。
それを逆に考えてみよう。

高齢者と老人という言葉を簡単に定義しておく。
高齢者は単純に加齢を重ねた人で、一年ごとに歳を重ねていく。人は皆、その道をたどる。老人化とは、社会的な活動が衰退したひとという意味で、年齢とは関係ない。
定年になり仕事をやめると、あるいは会社をやめると急に太りだした、急に老けた、人が変わった、ということがよく言われるが、それは高齢者になったからではない。単に生活が変化し、それに適応したからだ。
必ずやるべき仕事や約束がなく、義務も目標もなければ、朝眠いのに早起きすることもなく、ヒゲを剃ったり身だしなみに気を使う必要がなくなる。そう考えれば、そういう行動は削除されていく。
1日を構成していたプログラムが、定年・離職とともに、ガラッと変わるのだ。

もっとも、一日中暇にしている人は少ない。
最近の調査では70歳でなんらかの仕事をしている人は45%に上るという結果が出ている。1日3、4時間で週に3日くらいの仕事でも、それらは1日のスケジュールに規律を持たらす。多少は身だしなみに気を使うし、体調の変化にも敏感になる。仕事時間の比率が少なくなったことにより、生活スタイルの変化は多少緩やかになる。だから、生き方を考えると、大きな落差はないかもしれない。大きいかどうかは自分の気持ち次第だ。

自分らしく生きるというのは、自分を基本において様々な変化を受け入れ、自分らしさを拡大していくことだ。59歳までの現役だった自分と60歳になった定年を迎えた自分そのものは大きく変化するわけではない。いままでのルール、スタイルが変わっただけだ。自分がその変化をどのように料理していくかで、生き方が変わり自分が変わる。

健康に良いからといって、自分で料理を始めたり、ジョギングを始めたりする。町内会の活動に参加したり、女房と買い物に出かけたりする。
そういった新しいことにチャレンジする機会が増え、実際にやってみる。
しかしおつきあいであるならそれは長続きしない。したとしても満足は得られないことが多い。自分が好きでやっていることではなくて、それを確認するテストだからだ。面白くやりがいを感じることに発展するなら、それは新しい仕事だ。そしてそれに注力できるような生活スタイルを作り出していく。こういう変化が自然だ。

よく生きる、ということは社会制度の変化においても自分らしさを基準に、新しい環境を料理することである。そのためのマーケティングは必要だが、どうもそれが足りないのではないか、と思う人がいる。
園芸、陶芸、料理、旅行、映画鑑賞、読書。
定年後にふさわしい趣味のランキングは、どこも同じだ。
お金があまりかからない、適度な運動になる、健康に良い、などの理由からそうしたものが上がるのだろう。
それはある面で縮小バランスに過ぎないとも言える。お金がかからない範囲でできること、という条件付きだとそれは必ずしも満足できない。

お金を稼げるのなら稼げばいい。
そうして得たお金で、趣味なら海外旅行にでも行けばいい。
月に一度、豪華なレストランで食事をしたり、半年に一度新しい服を新調するのもいいのではないか?
それは今までの生活ポリシーと大きく変わらないはずだ。
我慢と努力、それによって好きなことをやる。
高齢者だからといって(年金が入るからといって)、全く違う公式が生まれるわけではない。


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