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まぶしくてみえない 【短編小説】


ねえ。

 んー?

  今日もなにか話して聞かせてよ。

 眠れないの?

というか、寝たくないの。

 えー。じゃあ、あれでいい?
  釣りの帰りにハンバーグ食べる話。

 うーん。別のにして。あれ好きだけど。

じゃあ、
 ペットショップに象を探しに行く話。

  だめ。新しいやつ。

 めんどくせえ。大人しく寝ろよ。
おれは寝る。

 起こす。

  起こすな。わかったよ。
 ちょっとだけな。

やった。

 タイトル、ある男の話。

  なんか雑。



――想像して。



JRの神田駅のエスカレーター、改札階から一、二番線のホームに続くエスカレーター、あれって一回途中で乗り継がないといけないくらい冗長なんだよな。おれはそれの下り側の二つ目、改札階に近い方のエスカレーターに乗って考えごとをしていた。自分が今なにを思考するべきなのか、って。まあだから、なにも考えていなかったとも言い換えられるな。

そこってやっぱり中央線との接続があるから乗降客がそれなりに多い。前に並ぶ背中も、左側で対向してすれ違う面々も、だいたいがスーツを着たサラリーマン風。大学生みたいなのも少しいる。オーバーサイズ、ルーズ丈、ビッグシルエットとかっていうのか、それを表す言葉も多けりゃそれを身につけている若者の数ときたらなんとまあ多いことか。あとは、まだ夕方四時とかだったから、おじいさんおばあさんもちらほらいる。地域性なのかな、服とか髪とかちゃんとしていて、あんまりザ・年寄りって感じのくたびれた雰囲気の人はいない。一人のおばあさんなんか、ネイティブアメリカンだかチロリアンだかみたいに飾り羽のついた帽子をかぶって、背筋を真っ直ぐにして颯爽とステップに立っている。エスカレーターを降りきったところで、彼女は自分の足で歩きだした。まるで白い鳥が飛び去っていくみたいに、頭上の飾り羽がピョンピョンと上下していた。

そんなふうに、普通エスカレーターって行き先の方に顔が向いてて、あまり後ろを振り返ることがない。だけどそのとき、おれはふと背後に視線を向けたんだ。カツ、カツ、カツ、カツとメトロノームみたいに左右に振れる音がそっちから聞こえてきたから。白杖をつく女の子が、一つ目の下りエスカレーターから二つ目の下りエスカレーターに向かう踊り場を歩いているところだった。

おれはなんとなく目が離せなくなった。だってこんなに大勢の人の往来があって、誰もその子のことを気にかけている様子がないんだ。おれは、おれの視界の範囲内で、その子の無事を見届けることが自分の義務であるように感じた。

おれは見た。藤色、というかもとは明るいピンクだったのが色落ちしたような風合いのアノラック、その袖はグレーのリュックサックの肩紐に通されていた。首もとのドローストリングが、その子の慎重な歩みに合わせて控えめに跳ねていた。やがて白杖の先がエスカレーターの進入口の金属の床を叩いて静止した。その子は空いている方の手で、手すりのベルトを探し始めた。そして下りエスカレーターのベルトを探り当てた。登りエスカレーターのベルトをまたいで、下り側のベルトを。その子はそのまま登りエスカレーターのステップに足を踏み入れた。グルグル、カラカラとチェーンの駆動音がやけによく聞こえた。進路と反対方向に進む床に乗って、その子はバランスを崩して転倒した。ドスン、という重みのある音を聞いて何人かが初めてそちらを見た。おれはそうした一連の光景をすべて見ていた。それをただずっと見ていただけだった。

高尾行きの中央線に飛び乗って、おれは自分を相手に口論することにした。おい、おかしいだろ。だって、あの場で唯一あの子のことを気にかけていたおれが、当時当所にいたすべての鈍感な人間という人間どもを差し置いて、結果最も冷たい悪人になり下がっている。エスカレーターを逆行して駆けつけるのはやり過ぎにしても、危険を知らせる声をかけるくらいはできたはずだ? ものの四、五秒のことだ、内気なおれの反射神経にも限度がある。頼むから、初めから関心のなかったやつらと比べておれのことをことさら責め立てるのはやめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。

自分のことを嫌いになった、ってことは、おれはもとは自分のことをある程度好きだったんだな。で、おれは自分のことを、誰かの危機的状況に是も非もなく救いの手を差し伸べられる善人だ、と無根拠に買い被っていたわけだ。だけど全然そうじゃなかった。おれはまた自分を好きになりたかった。どうしようもないよな、マジで。神田でまたその子を見かけたんだ。眉尻に貼ってある絆創膏が痛々しかった。一旦黙って聞いてくれ。おれはそのあとをつけることにした。友達との約束があったけど、そっちはとりあえず腹が痛いとか言って時間を遅らせた。

あのときと逆で、今度は一、二番線ホームの方に向かってエスカレーターを登った。京浜東北線を一本見送って山手線に乗ったのは、行き先が鶯谷だったからだ。北口改札を出ると、以前に見たより順調そうな足取りで、その子はカツ、カツ、と白杖を鳴らして線路沿いに進んでいった。シャトー・ド・ニュイっていうラブホテルの裏手まで来たところで少し歩幅が小さくなって、白いタイルの壁伝いに手探りで入口を見つけて、藤色のアノラックはその中へと消えていった。その日見たのはそこまでだ。

それからおれは、学業の暇を見つけてはその子の動向を見張るようになった。おれは不細工だから一緒にラブホテルに入ってくれる女友達なんて当然いないし、その内側でのことは想像する他に仕方がなかった。けど決まった曜日、決まった時間に出入りしているところをみると、どうやらお客をとったりしているわけではなさそうだった。おそらくフロント業務をしているのだろう。平日の昼番勤務で、夕方になると阿佐ヶ谷にあるアパートへと帰っていく。火曜と木曜には言問通りの高架下まで男が車で迎えにくるが、それ以外はJRを乗り継いで通勤しているようだった。

おれは来る日も来る日も、その子の無事を見守った。もう通い慣れたのか、道中で助けが必要と思われる瞬間というのは無いに等しかった。できることといえば、その子の進路上に妨げとなりそうな人や物があったときに先回りしてどけておくってくらいのもので、おれはいつまで経っても償いができた気持ちになれず悶々とした。で、おれはあることを思いついたんだ。

シャトー・ド・ニュイの清掃スタッフは人手が足りていないらしく、女性のみの募集のところ、男のおれもあっさり採用された。入ってみれば予想通り、その子はフロントの従業員だった。電話対応だとか、客室の空き状況、清掃状況管理とか、アメニティや消耗品の発注みたいな、そういう業務にあたっているらしかった。

おれたち清掃スタッフはその子からの指示を受けて、客の出ていった空室に清掃に入る。簡単に済ませて回転率を上げる追掃か。サービス、設備の維持向上を図る本掃か。そういう判断も含めておれたちはその子のいいなり。彼女は女王アリ。仕事だから悪気とかはないんだけど、関係上こき使われるわけでさ。清掃スタッフの中にはその子のことをよく思わない人もいた。

その子はハンデが考慮されて、調理とかいくつかの業務を免除されていたんだけど、それも反感を買う一つの要因だったのかな。客室に落ちてた陰毛を飲み水にこっそり入れられたり、白杖に使用済みコンドームの中身を塗りつけられたり、その子の気がつきにくいところで色んな嫌がらせが行なわれていた。

おれはそのたび飲み水をきれいなものに交換した。白杖を業務用洗剤で拭いた。椅子が隠されていたらもとの位置に戻しておいた。背中に「役立たず」の張り紙があればそっと剥がした。声はたてない。気配はなるべく殺してさりげなく。当人が気づきさえしなければ、初めから嫌がらせなんてなかったことになる。おれたちは余計なものが見えすぎているのかもしれない、ってそんなことを思ったりもした。

一年が過ぎ一年半が過ぎ、おれはあいかわらず電車で駅で、その子に危険がないか見守っていた。飲み水を取り換えて続けていた。白杖をひたすら拭っていた。でも、おれにとって期間や回数はあんまり重要じゃなかった。季節はどんどん移っていって、でも少し待てばまたもとに戻った。そうこうしてるうちに、丸二年が過ぎたあたりのことだった。

必要なら警察を呼びますよ。初冬のある日、阿佐ヶ谷のアパートにその子が入っていくのを見届けたところで、どこからともなく現れた男がそんなふうに言って詰め寄ってきた。おれはすぐにピンときた。火曜と木曜に言問通りのとこまで迎えにきてるアイツだった。初めて近くで見たけれど、茶髪にピアス、柄シャツにシルバーといったいかにもヤカラって感じの風貌で、前々からとうてい彼女には似つかわしくないと思っていた。申し訳ないけど、話の通じるやつとは思えなかったんだ、その時その見た目からは。

おれたちはパールセンターの鉄板焼き屋に入った。警察は呼んでもいいが彼女にはおれのことは言わないでほしい。ってそう言ったら当然事情の説明を求められたんだけど、長くなりそうだから暖房の効いてるところに行こう、って流れになってさ。店でおれは、神田のエスカレーターでのこと、シャトー・ド・ニュイでのこと、隠す必要がないから全部話した。というより話せた。そいつ、口下手なおれの言いたいことをちゃんと想像して、言語化を手伝ってくれるやつでさ。話もすごく巧いんだ。おれは誤解してた。あの子の方がよっぽど見る目があったわけだ。

そいつはもんじゃを焼くのにもやたらと手慣れていた。ヘラで器用にダムを作りながら、期間や回数じゃないならなにがゴールなのか、とおれに訊いた。応えられなかったけど、おれは心の中で答えを探してみた。例えばありがとうと言われれば気が済むのか。いや、そうじゃない。おれにその資格はない。むしろおれにあるのは責務だ。おれは彼女に謝らないと、ごめんって言わないといけないんだ。それがきっとゴールだ。

ジャアジャアと音を立てて、鉄板が水分を飛ばしていく。本当はそんなこと、初めから分かっていたのにな。香ばしい煙がただ上がって、しばらく無言の間が続いたのを覚えている。

その年のクリスマスは土曜だったか日曜だったか、とにかく学校も会社も休みの日だった。シャトー・ド・ニュイは昼からの盛況を想定して、フロントも清掃も人員を増やしてそれに備えることになった。そんなわけで、珍しくその子も休日シフトに組み込まれていたんだ。

当日、その子はいつもより少し早めにアパートを出た。阿佐ヶ谷には休日、中央線が止まらないからだ。いつもと違うホームで総武線に乗り込む姿は、緊張ぎみで少しぎこちなかった。これからパーティ、って感じのキラキラした女子から席を譲られたけど、高田馬場はすぐだからと言って断っていた。

ホームドアが開いた。車輌の扉も開いた。そしてカツ、カツ、と白杖が鳴りだした。その強弱、間隔は普段と微妙に違っていた。山手線の改札方面へと続くエスカレーターを前に、まず足下の可動部に白杖を当てて、それが登りのものであることを確認した。手すりのベルトに左手をかける。右足をステップへと踏み出す。おれはそれを見ていた。終点を察知するために、白杖を一段上のステップへと突き出す。身体には少し力みがある。それもおれは見ていた。

その子は、そのエスカレーターをもうちょっと長いものと見積もっていたらしい。想定より早く下がり始めたステップに慌て、反射で彼女は出足を少し早まった。ステップに躓いた彼女は、進行方向に倒れかけた。おれはそれを受け止められる位置にいた。受け止めて、おれはその子に初めてちゃんと触れた。密接していないと感じられない匂いを嗅いだ。

自分を許せなくて、手が震えた。おれは彼女が再び転ぶこの瞬間を心待ちにしていたのだ。

シャトー・ド・ニュイでのこともそうだ。おれはなぜ、清掃スタッフたちの嫌がらせをそもそもやめさせなかったのか。飲み水のこと、白杖のこと、すべては自分のことを好きになりたいがために演じていた茶番に過ぎない。おれはそこでも声を上げられなかった。結局、おれはおれが一番大事だったんだよ。

すみません、それかありがとうかな。その子が言いかけたのを制して、おれはごめんって言った。おれは彼女を立ち上がらせて、すぐにそこを去った。インフルエンザだって伝えて、その日からのシフトはずっとバックレた。責務を終えて、おれの時間は有り余り過ぎるほどに有り余ってしまった。

田舎に帰る前日、おれは最後に、火曜と木曜の男に会うことにした。待ち合わせ場所の阿佐ヶ谷の駅では、やっぱり色々と思い出しちゃってちょっとセンチな気分になった。パールセンターの鉄板焼き屋で、おれはまた自分の気持ちの言語化を手伝ってもらった。男は本当にことばを操るのが巧かった。目の見えない彼女にとって、ことばは光だ。男のことばは色鮮やかで、眩しくて、優しかった。

おれのことは彼女には絶対言わないと約束してくれ。知られなければ、初めからいなかったのと同じになるから。

おれは最後の頼みを口にした。目と鼻がどうしようもなくむずむずしてきて、おれは一目散にトイレに駆け込んだ。男はおれの涙を知らないはずだ。



――これでおしまい。



・・・なんで。

なんでだろうな。

なんで約束破ったの。

おれにもよく分からない。

眠れなくなったじゃん。

だって、寝たくないんだろ。

バカ。

いいよ。朝までだって起きていよう。


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