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329,999 【超短編小説】


右隣の男が言う。

「今」っていつのことですか、って人に説明を求めると、みなさん意外と悩まれるんですよね。ある人はパンッ、と一つ手を打って、「はい、この瞬間が今です」なんておっしゃる。ある人は時計を見て、時刻をただ読み上げただけで「今」を定義した気になっていたり。もっと悪いと、「え? 知らないの? 自明でしょ」みたいな顔をするだけで、考えを聞かせてもくれない人もいる。まあ要するに、興味自体がないんでしょうね。そんな当たり前の命題にはね。

もちろん、中にはまじめに答えてくれる人もいます。たとえば、「過去と未来のあいだの時間」、なんていうふうに。これなんかはかなりもっともらしい。実際、辞書にもそんなようなことが書かれているものが多いんです。でもほんとにそうでしょうか、って私なんかはどうしても思ってしまう。

不思議なハナシですがね。「今」って言葉、たいてい過去か未来のことを言っているんですよ。「今やります」、の「今」だったら未来のことでしょう。「今やりました」、の「今」なら過去のことだし。ことテンスの対立上においては必ずそのどちらかになる。

はい。では、アスペクトの対立を考慮した場合はどうなるか。つまり「今やっている」、とか「今病気だ」、の「今」が何を表しているかということです。結局、これまた過去も未来も含んだ言葉だといえてしまいます。発話しているその瞬間だけ病気なわけではないじゃないですか。それ以前の過去もそうだったし、おそらくそれ以後の未来もしばらくは同じ状態が続いていくだろう、という前提がやはり必要になるんです。

つまりは、過去からも未来からも切り離された、「あいだの時間」なんていうものは存在しない。「今」ほど信用のおけない時間はないんです。あ、それポンで。



右隣の男が、河から發を拾い上げる。今度は左隣の男が言う。

面白い。あなた、言語学がご専門だとか。なるほど、らしい解釈のしかたですね。テンスだとかアスペクト? みたいな用語はよくわかりませんが、興味深く聞かせてもらいましたよ。

わたしもね。「今」という概念は空想上の存在だと考えています。人間が「今」であると錯覚しているものは、実際はすでに過去となって通り過ぎてしまっているものだといえるからです。

ジェット機の音は、それが飛び去ってから耳に届いてくる。知っての通り音は、毎秒〇・六一×摂氏温度+三百三十一・五メートルの速度で、時間をかけて空気中を伝わってくるものですからね。夜空に輝く星々、あれは地球上のわれわれのところにやっとその光が届いたというだけのことであって、発生源の天体はもうとっくに消滅してしまっているかもしれない。毎秒三十万キロの速度とはいえ、光だって伝わるのに時間がかかっているんですから。

極めつけに、音も光もそうですが、熱もそう、臭いもそう、触ったり味わったりするものもそう、結局は神経を通じて脳が受容する電気信号にすぎない。電気はたしかに速いです。ものすごく。光とほとんど同じ速さで移動します。でもおわかりの通り、まったくの〇秒で伝わってくるものではない。われわれは常に過去を見、過去を聞き、過去を嗅ぎ、過去に触れ、過去を味わっている。そんなふうに言うことだってできませんか。

われわれはどうやったって、起こったあとの事象しか知覚できないのです。「今」と思えるものは実はすべて「過去」。「今」なんてものは、ただの夢想、幻想に過ぎないのです。失礼、ツモ。五百・千。



くそ、そんなショボい役でおれの親を流すなよ。おれは心の中で悪態をつく。

千点くらいくれてやるのはなんとも思わないが、両隣からこうも的外れな講釈をたれられては、そりゃ腹が立ってこちらのペースも乱されよう。「今」なんて無い、だって? お前ら、典型的な「学ぶやつ」だな。つまらねえ価値観だこと。ご愁傷様。

いいか、「今」ってのは究極の「美」のことだ。純粋に美しいもの、それは言葉でもデータでもアイデアでもない、それら未満の「今この瞬間」だけなのだ。「今」を、もしくは限りなくそれに近いものを表現しようとする、それこそすべての芸術家が目指すべき創作の境地なのだ。

たとえばクラシックと呼ばれるアートの一群は過去のものと思うか。いや、違う。時代のハナシではない。本当に美しいものは、どんなに昔に創られたものであろうと変わらず美しくあり続ける。「今」が保存されパーマネントに生き続ける。

たとえばアクション・ペインティングのような、ライブ・パフォーマンスだけが「今」だと思うか。いや、違う。過程のハナシではない。美しさを表現するのに成功した創作の産物は、鑑賞する瞬間がいつだって「今」になる。お前らに理解できるとは思えないが、「今」は確実に存在するんだよ。あっ。「えーと、それロンです。三千九百」。くそ、余計なこと考えててリーチし忘れた。



右隣の男から点棒を受け取る。おれは頭の中で語り続ける。

世の中には四種類の人間がいる。そいつらはそれぞれ、見つめている方向が違う。学ぶやつは過去を、稼ぐやつは未来を、創るやつは「今」を見つめようとする。四つめは、それ以外。学ぶやつ、稼ぐやつ、創るやつ以外の、残りすべての人間ーー。


「天和。一万六千オール」


その一瞬、まるで時が凍りついて意味をなくしたように感じられた。その夜は結局、正面の男の一人勝ちだった。



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