心が震えるメッセージ
実家に向かう途中、かみさんが新聞を読んでいて、ある事故の記事を見つけた。「工場での作業中に死亡」とあった。確かその前にインターネットでも同じような記事を見ていたと思うのだが、そのときは何気なく読んでいたような気がした。でも今回は違う。たしかに誰かからのメッセージのように思えた。
それは弟からのものに違いない。彼もまた同様に、会社の機械の故障を点検している際、誤作動が起きて巻き込まれて死亡した。21歳になろうとしていた矢先のことだった。新聞に書かれていた記事によれば、亡くなった方も22歳と30代らしく、その事実よりも、少しお墓に行っていなかった私に対してメッセージを送ってくれたような気がしてならなかった。
思わずはっとした。人間は記憶が薄れていくと、その時に感じた心の痛みを忘れていくものだ。あれだけ自分が取り乱したのは、いままでなかったし、あのような苦しい経験はいまだかつてない。それぐらい彼の死に対しての思いがありながら、いまは毎日、どうやって食っていくか、で必死である。確かにこうやって必死になって生きているから忘れることもできた。こうして平常心でやっていけるのだ。だけどその存在が永遠に私たちから消えないように、その思いはかならず何かのきっかけで浮かび上がってくるものだ、と実感した。
記事を読んでもらいながら、弟との切っても切れない運命を感じ、少しだけかわいいやつだ、と思った。生きていたら29歳になっているだろう。いっぱしの大人を気取っていたかもしれないが、たぶんケンカが絶えなかったことだろう。年が離れているし、親父もいないせいで、どうしても自分の子どものようにしか見ることができない彼に対する意見は、どうしても“親父”のようになってしまっていたと思う。だけどこういう状況になって残ったものは、そのかけがいのない存在をあらためて実感できることだ。世の中にあふれている兄弟や親子のケンカの類いは、この社会でそれぞれが必死になって生きていて、相手のことを思いやる気持ちがどんどん薄れていくことに原因があると思う。それがなくなってしまった私たち兄弟には、ただ相手のことを思いやる気持ちというシンプルな形しか残されていない。
「兄貴、最近、ちっともこないな」といっているかどうかはわからないが、死んだ人間がそれを否定することもないだろうから、そういうことにしておこう。ただ水をかけて汚れを落とし、花束と線香を供えてやるだけのことだ。時間にしてもそんなにない。それでもきっと来たことを喜んでくれているという確信がある。何を隠そう、納骨前に弟の生の声を聞いたのはたぶん、私だけだろう。あれが最後のメッセージだったと思う。体中から振り絞るように発した言葉は、言葉というよりも叫びに近かった。苦しかっただろうに。いまでも思い出すたびに心が締めつけられる。締めつけられるたびに弟が身近かに感じられるのも確かであり、苦痛というよりも、私にとっては一種の儀式になっている気がする。
こうして生と死を日常的に感じながら、私は生きていかなければならない。それはうれしくもあり悲しくもある、とても複雑な心境ではあるが、これが私に課せられた運命でもあると思う。たぶん、死ぬという選択肢もあったと思う。いやいや自殺とかではなく、ある意味、親父や弟に代わってということで。そうではなく私がこうして幸か不幸か生きている現実は、誰にもわからないが私にはわかっている。こうして生きて、苦しんで、そして楽しんで何かをしていく運命なんだと。もう運命に逆らうことなんかできない。こうして日常のなかで“あの世”とのメッセージの交換をしつつ、日々生きていくつもりだ。
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「あの頃のジブン」シリーズの原稿が終わり
新たなシリーズを創作していたら
書き連ねた原稿の束が出てきた。
そうか
まだ世の中に出ていきたかったんだね。
37歳の誕生日前後に書き続けた原稿は
誰かに読んでもらえる日を
22年間も待ち続けていたことになる。
忘れていてごめんね
という気持ちで少しずつ発表します。
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私の人生を大きく変えた弟の死。
先日もお盆のお墓参りをして
彼に話しかけてきました。
こうやって
心の中にいる彼に向かって語りかける行為は
ジブンへの気持ちの確認であり
これからどう生きて行くかの宣言でもあります。
今年は導かれるように
父方、母方の祖父・祖母、叔父、叔母が眠る
お墓にすべてお参りすることができました。
人生最後の区切りになるような年に
みなさんと向き合えたことを感謝して
あらためてジブンの人生を
懸命に生きていこうと思います。
#あの頃のジブン |20
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