人生の課題にぶつかった時に助けてくれるモノ
最近、かみさんと教育についての議論が多い。先日も小学校の絶対評価について話しをしたし、今日は公立高校の先生が、夏休みを利用して予備校の講師から“指導”を受けたと聞いたものだから、またまた頭に来て激論になってしまった。
論点は、公教育とはどうあるべきかである。私はなぜ私立と公立の学校があるのか、というそもそも論から始めた。つまり公の立場は、科学や数学、文学、歴史、芸術などなど、あらゆる分野を広く教えながら、子どもたちの成長を図るものだということだ。それに対して私立は、創立者もしくは学校法人としての教育理念、例えば英語教育に力を入れていたり、特定分野の人材を育成するなど、独特の教育システムによる学校運営を主としている。つまり教育を教養的要素として捉えるか、一種専門的なものと捉えるか、ということかもしれないが、その差がどんどん見えにくくなっているように思える。
私たちの高校時代は、田舎の進学校らしく受験戦争を勝ち抜いた田舎出身の生徒がそのまま先生になった感じの方が多く、特別、情報がなくても授業を聞きながらそのまままっすぐに受験にむかっていけばよかった。だから特別、高校時代に印象に残るもの、ましてや授業で感動した覚えはない。それに対してかみさんの高校には学者肌の教師が多かったらしく、それをどれだけの生徒が受け入れていたかは疑問だが、一人ひとりが印象深く記憶に残っているという。
本来は、かみさんの高校のほうが公立のあるべき姿ではないのか。確かに受験テクニックに乏しいかも知れないが、高校生レベルでそれだけのものを授業として聞けるのは幸せだ。最近では、大学でさえも、どこかの大学を退官したようなおじいさん教授が多く、新しい何かをいっしょに考えよう、という気にさえならない。一方、私の高校はまだそんな風でもなかったが、冒頭で話したような予備校で習得したテクニックをおもむろに授業で披露されては、おいおい、と声を出したくなるというもの。そんなのはとっくに知っているから、もっと授業そのものの中身を充実させてくれないと、塾も学校もいっしょになってしまう。そういう高校になぜ、毎日通い続けなければならないのか。疑問を持たないというほうがおかしい。
ゆとり学習がはじまったばかりなのに、高校生になったらまた以前と同じ、いやそれ以上の競争に逆戻りでは、いまの小学生の親は心配で仕方がない。まあ、親が心配って何を心配するのかさえわかりませんけど。えっ?何?子どものことではなくて、自分の存在意義みたいなものが心配だって?確かにねえ。そういうことでなければ、月々何万円もかけて塾に通わせないか。しかしもっと子どもたちの潜在的な能力に期待してもいいのではないだろうか。ひ弱に見える子どもたちも、すぐに大人になって、自分自身の判断が必要になってくる。判断を求められたら“YES/NO”を即答しなければならない。そのとき、答えが出せるような生きる力が身に付いているのだろうか。
何もかも親や先生、そして塾が用意してくれる現状が、なんと20歳前後まで続くわけだから…。いざ、自分の頭で考えよう、主張しようといってもそんなに簡単にできるわけではない。具体的な要望がなければ、私は子どもたちに何か与えるようなことは基本的にしないつもりだ。失敗してもいいから、とにかく自分で決めて、そして失敗して、それをどうしたら一番いいのか考えさせて、そして最良の結果にしていく術を学んで欲しい。当然、最低限度の勉強はやってもらわなければならないが。そのためにも考えることが必要だ。
これは経験と訓練しかないだろう。繰り返し繰り返し経験して、失敗して学ぶこと。そういうことが本来の教育の目的だったのだと思う。私の人生を賭けて、自分の子どもたちには、ぜひそういう経験ができる環境を作っていきたいと思う。
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ここ何年かの会社経営の経験から
必要な人材像というものがだんだん見えてきた。
端的に言えば“教養”がダントツで
技術とか資格とか経験というのも大切だが
それ以上に必要だと感じている。
ある課題があったとして
自分の経験値だけで解決しようとする人と
過去に学んださまざまな理論や考え方を応用し
解決に向けて道筋を立てる人を比べれば
まさに一目瞭然だ。
時代はつねに前に進んでいる。
過去に戻ることはない。
戻っているように見えていたとしても
その中身は着実に変わっている。
そういうことを瞬時に理解するには
客観的なものの見方すなわち
その人の持っている教養がモノを言う。
教養を実務で使いこなすには訓練がいる。
何度か失敗もするだろうが
訓練なので失敗を恐れることはない。
経験値だけでは失敗した時に混乱してしまうから
結果が見えてくると行動が止まってしまうのだ。
ではどうするか。
本文中にも書いてあったが
人の話を聞き
書籍を読み
経験を積み重ねる以外に方法はないと思う。
そして自分なりに体系化することだ。
私もこの歳になって
まだまだ知らなかったことや知っておかなければ
いけないことなどが山積みであることを
思い知らされる出来事に遭遇した。
そういう時に限って
自分の知識との矛盾点が露見するので
感情的にならずに冷静に対処できた。
これもまた“教養”のお陰なのかな?
#あの頃のジブン |67
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