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勝負の世界から次のステージへ

「最後の代表」ヒデ献身。
今日の朝刊一面に、日本代表がW杯で初の勝ち点をあげた試合を紹介してるその記事下に、その見出しはあった。思わず言葉を失った。いや失ったという表現は適切ではない。むしろ感動して声が出なかったというべきだろう。

昨日のコラムで若い人たちの閉塞感を取り上げたが、少し私の見方が甘かったようだ。日本は着実に、個人一人ひとりが成長し、いままでになかった価値観を自分たちの手で創りだしていると思っていた。したり顔で“奪え”などと書いた自分が恥ずかしい。

中田選手の考え方の要旨はこうだ。「国の名誉という鎧(よろい)を着せられた国対抗の代表戦は、チームのために働くことが優先される。プレーを楽しむことより勝負に執着するサッカーを終わりにし、自分を表現する場を探したい。

サッカーをする人間ならば、誰でもあこがれる日本代表としての地位よりも、自分を表現することに価値観を置く中田英選手。いいとか悪いではなく、自分らしさはどういうことか、をしっかりと持っている人だと思った。

それにくらべて、同じ面に載っていた食品添加物の問題はどうだろう。20年以上に渡って違法性を知りながら“組織”のためにだんまりを決め込んだ、というのだから恐ろしい。確かにこれまでの企業の考え方は、流れを止めるなんてことは考えられなかっただろうから、この結果は当たり前といえば当たり前。こうして取り返しのつかない事態になってからごめんなさい、では消費者はどうしたらいいのだろうか。国のため、組織のためよりも、自分の信じることを貫けた人がいたら、こういうことが起きなかったかもしれない。

さて、振り返って自分についても考えてみる。客観的にいえば、組織を出て自分のやりたいこと、めざすことに価値観を置くところまではいいだろう。やはり求められるのは結果だ。中田選手はその答えを確実に出しつつある。本人にしてみればまだまだだろうが…。私の場合は、まだ不安と恐怖のほうが自信に負けていて、手探り状態が続いている。やはり食べているだけでは目標達成にはほど遠い。その価値観にあった仕事(というか趣味、いや、めざすもの)をどれだけやって、自分なりに満足できるかだ。ただ、どうしても周囲の求められる姿に合わせている自分がいることも確かだ。

そういう役回りはご免なのだが、どうしてもやってしまう自分がいる。そこはあまりこだわらずに時間の許すかぎりやるべきなのか、それともすべてを捨てて突き進むべきなのか。こういうことで悩んでいるうちは、中田英選手のようなスタイルは難しいと思う。まずはそういえるだけのスキルを早く、身に着けていくに尽きる。自分は新しい時代に、新しい価値観のなかで生きていけるのだろうか。迎合するということではなく、何かきっと役割があるはずだ。

こうして生きているということは、生かされていることであり、必要だからだと信じている。ただキーボードを叩き、マウスを使って企画書や原稿を書くこと、ボールを蹴ってゴールに入れること、ボールを打ってフィールドを駆け巡ること、どれも単純なことのようで単純ではない、その魅力に魅せられて生きていくことを幸せに感じられるようにしたい。技術ではなく、自分らしさの形をどう創っていくか、彼にまざまざと見せつけられてうれしかった。こうして悩めることを楽しもう、こうしてこつこつとやれることに感謝しよう。また新たな確信となって生きていけそうな気がする。

*****

純粋すぎて涙が出る。
こんなおっさんにも
こういう時代があったことを誇らしく思う。

生かされている。
必要とされている。


これが
当時の私を突き動かすエンジンであったなら
世の中の仕組みを知ってしまった今の私は
迷わずに進んでいくしかないだろう。

ただ迷わない人間はいない
歳をどんだけ取ろうが
金をどんだけ持とうが
迷い、悩み、失敗することに
違いはないを

ただ違うことは
周囲に自分を合わせることは
もうしなくてもいい
ということだ。
良くも悪くも
私を意味づける特技らしきものを
捨ててもいい時期が来たように思える。

あの人は今
という特集が時々テレビ番組で組まれるが
そのくらいの記憶でもう十分。

これまでに出会った人たちとの
一期一会
これからの心の支えにしていきたい。


#あの頃のジブン |23

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