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【しらなみのかげ】 毎日、死ぬ瞬間について考える #2


何時の日からか、私は毎日、死ぬ瞬間のことを考えるようになった。
それは、庭先で煙草を呑んでいる時であったり、夜分に一人で盃を傾けている時であったり、或いは眠りに就く前であったりする。要するに、意識的に意志を働かせて何かをしているのではない時、自由な想念と思考に任せている時に、そうした時間を作っている。勘違いされないように申し添えておくが、これは別に「死にたい」という感情、死への欲望(ならぬ欲望)へと惹き付けられているのではない。つまり私は、鬱病に罹って死の想念に囚われているのではない。況してや、自殺することなど少しも考えてもいない。只、いつかは判らないがいつの日か必ずや訪れることになる死の瞬間、私の一切の意識の灯が消えるその瞬間のことを、考えるのみである。その瞬間の後、どうなるかは確と判らない。しかしながら、それを何処かで真正面から考えなければ、人生の真実は決して分からないと私は確信しているのである。


私は宗教というものを、確証としては薄ぼんやりとしてでしかないが、予感としては非常に強く信じているので、何処かで死を以て私の全てが終わるとは思っていない節がある。ここで「確証」と言ったのは、或る意味で客観的な事実や実在の確認のことである。それは、目の前に存在するコップの様に、他界なり死後の生なりが存在するということだ。対して、ここで「予感」と言ったのは、その様な意味でその存在を確かめることも又信ずることも出来ないが、この刻々たる現在を生きる私の生の内で、医学的・生理学的な意味での私の生命に尽きない何物かを感得し、その感得が私の生の有限性を超えるものを示すということを意味する。私の生の有限性の自覚が、私の実存の深奥に「超越への予感」を齎すのである。死の瞬間という私の生の絶対的な「限界」は、そのどうしようもなく何処かで与えられてしまうという意味で私の生を超越しているが、その生の事実はその限界付けそのものが私には初めから如何にもならないという意味に於いて、私の生に回収されない何物かを既に示しているからである。


何らかの意味で私を絶対的に超えたものを(それを「神」とか「絶対者」とか呼ぶべきかどうかはまだ私には解らないが)、有限性の自覚の徹底は確かに示す。現在の私の感覚なり思考なりを絶対的に超えた何物かによって、私は「今此処」に在ることを私は予感する。少なくとも、「私」が「今此処」に「在る」という「事実」そのものの神秘は残る。何となれば、「私」が「今此処」に「在る」という「事実」は、それ自体が私の可能な裁量を超えたものであるからこそ、神秘なのである(私は、正に「この瞬間」に自殺することは出来ない。「この瞬間」に自殺することを試みたとしても、それは既に次の、またその次の瞬間でしかなく、生きている「この瞬間」には決して追い付けないからである)。しかもこの「超越への予感」は、文字通り五官で捉えられる様な客観的な事実や実在とは異なる意味での或る実在の感覚を齎す。より詳しく言えば、それは国家や法律や慣習や習俗や権力の様に世俗的な社会的実在の感覚でもない(これらは「予感」としてではなく、正に物理的な物とは異なる実在として確乎として存在するものである)。


しかし、実存が行う予感は自覚に於ける「事実」なのであり、自覚の事実性に捉えられるという意味において「実在」しているのである(というよりも、感覚、判断、思弁その他を含めて、それらの内で何一つとして私にとって何らかの意味で全く「感じられない」ものというのはないと思うし、西田幾多郎が言う通りそれらは究極的には「自己が自己に於いて自己を見る」という「自覚」に於いて与えられると思う。そう、全ては「感じられている」のである。最も抽象的な形而上学的思弁や数学的思考ですら「感じられている」に違いないのだ)。その予感が一つの信仰として堅ければ堅いほど、それは「事実」であり「実在」となる。つまり、来世なり浄土なり他界といったものも、私の実存の深い所で「確実なる予感」が得られればそれはやはり「実在」しているのである。魂の不死といったものも、それが実存の最深部で自覚されれば、それはやはり「事実」なのだと思う。そして、これら全ては今生の有限性の自覚の内に宿っているのである。


死こそが、我々人間の有限性の極限である。
それは、本性的に経験不可能なものだし思考不可能なものだ。
死は文字通り生の「限界」であるのだから、経験することは不可能であるし、同時に思考する私の「限界」でもあるのだから、当然思考することも又不可能である。だからこそ、死は私の有限性そのものであり、その自覚は私の有限性そのものの自覚である。『存在と時間』に於いてハイデガーがいみじくも言った様に死は決して他人事には出来ない、代理不可能なものである。


しかし「超越への予感」も又、この有限性の自覚から生まれる。
「超越への予感」は私を限りない思索の試みへと導くし、有限性の自覚は寧ろこの一瞬一瞬を限りなく強度に溢れた豊かなものにする。此処で、「私」が「今此処」に「在る」という「事実」そのものへと、その神秘へと私は真剣に向かわざるを得ない。それは、常に思考を漏れ出ていくものであるから、神秘なのである。現在は我々の気付かない所で過ぎ去ってもう既に過去になっている。未来は、我々の気付かない所で来たってもう既に現在になっている。しかしその更に向こうには、将に来らんとする「将来」がある。現在から様々な予測は出来ても実際の所は未だ何も分からない「将来」が控えて、私の実存の奥底へとその都度今正に入り込まんとしている。我々が確証を持てる範囲で言えば、死ぬ瞬間とはその将来の終極に来たるものである。それは或る意味において絶望である。しかしそれは、一瞬一瞬を確かに噛み締めて生きる私にとって、決して単なる絶望であるに止まらない。それは、いつかは必ず終わりを迎える誕生から死で限られた私の生に於いて、私の生の瞬間瞬間の逐一に、他を以てしては代え難いその都度の存在の意味を与えるものでもある。だからこそそれは、その都度その都度の「今此処」の充溢を、即ち真に運命を生きるということを逆照射してくれるものでもある。


そして逆説的な様だが、この「今此処」の限りなき充溢とは、この「今此処」が正に死ぬその瞬間だと「今此処」に実存する私がその都度受け止めることによってこそ成立するのである。それは、何時来るか分からないが若しかしたら正に次の瞬間にでも来るかも知れぬ死、自己の存在に固有のものとして受け入れざるを得ない死というものを「今此処」に於いて自らの可能性の限界として受け止めることによって成立する。


煎じ詰めれば、私にとっては「死ぬ瞬間」を思うことこそ、この生を限りなく豊かなものにするのである。そして実の所を述べれば、その思いは、その豊かさは、自らの生が今この瞬間に脆くも全く崩れ去るかも知れないという思いと全く同じものなのである。


しかし仮にその様に思えたとしても、死に至る迄の「苦しみ」の問題は残り続ける。それは(例えば新型コロナウィルスによって齎される様な)肉体的な苦しみに限らない。究極的には肉親、伴侶、友人、或いは尊敬する人や憧れる人を亡くすことに伴う様な、精神的な苦しみもある。だから死の問題は、確かに自己固有の追い越し得ないものであるにせよ、それは他者の存在無しに考えることの出来ないものでもある。

(この文章はこれで終わりですが、投げ銭方式となっております。)

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