見出し画像

【しらなみのかげ】 「秘密の「密」」について #10

相変わらず日付が変わっての更新であるが、この文章が1月6日分のエントリーである。
今日は、政治学者の佐藤信さんによる「密と政治」(『UP』49巻11号, p.14-21, 2020年11月号)を読んだ。

Twitterで同じく政治学者の河野有理さんがこの論文についてツイートしているのを見て、先日出した以下の記事と関わりがあると思い、興味を抱いたのである。

【しらなみのかげ】 「アフターコロナ」は「エシカル」な「ソーシャル・ディスタンス」とは別の仕方で #7

佐藤さんの記事は以下のリンクよりアクセスし、読むことが出来る。

https://researchmap.jp/shinsato/misc/33192360

 

この論考は、人間の政治的振る舞いの空間性を「政治=空間」として規定し、その「三密」(密接・密集・密閉)を、その反対概念である「開」「疎」「離」との関連から論じたものである。著者は、歴史的には勿論、コロナ禍に於いてすら、政治的なるものの中核に「密」という空間性が常にあったことを豊富な政治史的事例から汲み出している。 

選挙に於ける握手が魅力を放ち、交渉に於ける対面が電話やウェブ会議を以てしては代え難いという現実は、決して拭えない。秩序維持が「疎」で「離」へと向かっていく中でも、空間上の近接、すなわち密の重要性は変わらず、統治エリート達は密を志向し続けるのである。

かくして彼等は、開かれた政治を求める声に晒されつつ、公開と秘密のバランスをどう取るのかに常に頭を悩ます。そうして、政治交渉において不可欠な密議を行う為に、巧妙に空間的な疎密の操作を行う。疎密の操作が、そのまま政治の一部をなすというのである。コロナ禍に於ける三密回避は、政治と密の関係を断ち切ること能わなかった。

 

−佐藤さんは、大凡この様に論じる。

私の言い方で言えば、単に疫学的のみならず社会的にも「密」ということそのものがポリシーに於いて拒絶され、コンプライアンスに於いてリスク化されるこの世相の恰度裏面を為すものであろう。約めて言えば、社会秩序に於いては密がリスク化され、無闇な密の回避が倫理化される一方で、その社会秩序を形成する統治エリートの政治は相も変わらず密を本質としている、ということである。

 

実際、統治者から見れば、密集回避の状況は統治しやすい。統治者への反抗、その典型としてのデモなどの示威行為はまさに「人が集まること」であるのだから。この点も又、政治の本質が統治エリートの密であることを裏打ちしていると言えるのかも知れない。それは、統治する者と統治される者の差異が空間形成の仕方に於いて生じるということでもあろう。

 

だからこそ、政治は今まで以上に、その進め方に於いて世間から糾弾される運命を歩むことになるだろう。

そうして、その変わらない政治のあり方に対して、公開性と透明性が、大衆の側からは常に主張されることになるだろう。将又、その様な大義名分からではなく聊かのルサンチマンから、政治家達の密議に於ける「何処で」「何をしながら」「何を食べ、何を飲みながら」への非難の声も上がることになるだろう。 

当然ここで、統治エリート達も、不用意な「密」がポリシー的にもコンプライアンス的にもアウトであることを考慮する筈である。表向きは公開性と透明性を謳いつつ、政治に付き物の「密」を、更に「秘密の「密」」とし、それを如何に保持するかに心を配るだろう。或いはその「秘密の「密」」を秘密ならしめん為に、「公然の「密」」を演出するのかも知れない。

 

かくして、空間上の身体と身体の近接は、今や「秘密の「密」」となる。「離」「疎」「離」の方から見た時、それは絡み合う事象のネットワークの中心にある、中身のみならずその存在すら不可視のブラックボックスとして機能する。デマや陰謀論は、そのブラックボックスを目掛けて、益々公開の場に於いて公然と蔓延ることとなるだろう。

そして、この「秘密の「密」」化は、今やGPSに於いてあらゆるものが空間的にマッピング化される最中に於いて、それが弁証法的に招く「離」「疎」「離」の粗暴化と共に、益々進行することになる−私達は、身体が何処に在るのかを究極的に無視出来ないからである。

 

その時、政治は一体何処に在るのだろうか。

 (この文章はここで終わりですが、皆様からの投げ銭をお待ち申し上げております。)

ここから先は

0字

¥ 500

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?