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【しらなみのかげ】 「幸運を祈る」のではなく「縁起を担ぐ」 #15

今日は昨日のエントリーで書いた通り、お昼に十日戎の残りえびすに行ってきた。

先ずは折角京都に戻ってきたので祇園四条の天下一品にてチャーシューメンと明太ご飯を頼んで腹ごしらえした後、そぼ降る雨の中、四条通に大きく掲げられた十日えびすの門をくぐって縄手通へと下ると、出店が並んでいる。近隣の店舗も皆、めいめいに色々なものを売っている。その中を歩くだけで心躍るものがある日本のハレの日である。

 

平日の昼、オミクロン株の影響もあるのか、恐らく例年よりは人がずっと疎らであろう。ただ、道行く人は皆、福笹や熊手を手にしている。お返しする福笹や熊手を持つ人々は神社の方へ歩き、貰ってきた真新しい福笹や熊手を持つ人々は神社の方から歩いて来る。これぞ、十日えびすの風物詩である。昔は実家でも、博多は東公園の所にある十日恵比寿神社に福笹をお返しし、新しいものを貰ってきていた。

 

神社に入ると、境内には人が沢山居た。

コロナ禍だからこそ、神様に縋りたい商売人も多かろう。

福笹を頂くか迷ったものの、現在商売と言えるような商売をしていないし、置く所も無いから、今年は取り止めにして、御参りを済ませる。本当に金というものに好かれない人生を今まで歩んできており、去年も多事に奔走したのにも拘らず畢竟恵まれなかったので、今年こそは何卒良運の巡り合わせがありますように、という気持ちで祈る。

御神籤は去年の晩秋に山科の毘沙門堂に紅葉がてらに行った時、凶を引き当ててしまい、そして実際にその後或る災いに見舞われたということがあったので、今は空恐ろしくて引けなかった。

 

そぼ降る雨の中、歩いて何時もの喫茶店へ向かっていると何だか急に体調が悪くなる。縁起でもないと思い、珈琲を啜りつつ煙草をふかして休んでいると、珈琲のカフェインが効いたのか早速御加護があったのか、何だか少しづつ元気になって来たので、こうして今日の「しらなみのかげ」に手を付けている。

 

今日書いておきたいことは、まさに「縁起」乃至は「縁」について、である。

 

縁起というものは不思議なものだ。

まずそれは、所謂因果や相関ではない。物理法則に従って何かが起こることでも、或る出来事と相互作用を起こして別の出来事が起こることでもない。寧ろ、「因縁果」という様に因果の間にあって因と果を繋げている何かである。その様にして、出来事と出来事、作用と作用の相互依存関係を示す何かである。因果や相関といった客観的に観察出来る出来事の系列とは質的に異なる、出来事と出来事の間の「つながり」そのものの或る見えざる系列そのものというものが言わば「縁」というものである。勿論ここで系列と言っても、無数に存在する出来事と出来事の「つながり」なのだから、それは決して一列ではないであろう。

 

このことは、似ているようで異なる「運」と較べてみるとより明瞭になる。

「縁」は「運」と異なり、系列というものを明確に含意している。

「運」は系列というものを持たない巡り合わせや力の如きものを指すのに対して、「縁」は先程述べた通り「つながり」というその漢字の意味通り何らかの系列を為している。というよりも、後者は「つながり」そのものの系列である。

 

このことを別の角度から考えてみよう。「運」という言葉は、「偶然」と「運命」という一見全く逆の意味に見える事柄を同時に意味するが、これは正に出来事が原因も理由もなく実現することそのものを言い当てている点では等しい。「縁」の方はそれとは極めて対照的に、出来事と出来事の「つながり」そのものの系列である。即ち、「運」という言葉の指す出来事は絶対的に単立的であるが、「縁」という言葉の指すのは出来事の相互依存関係である。

 

又、「運」が人間の意思や努力ではどうにもならず、その引き寄せを願ったり祈ったりするのが関の山であるものである。人は「幸運を祈る」ことしか出来ない。対して、「縁」はその系列の成立に人間の意思で因由や前兆を多少なりとも読み取ることを許し、又人間の努力による介入が或る程度は可能なものである。「縁起を担ぐ」という言葉がある所以であろう。「因縁を付ける」や「因縁を断つ」「因縁を晴らす」といった言葉も又、人間の介在の可能性を示しているように思う。「運が良い」「運が悪い」は基本的に事後的にしか言えない表現だが、「縁起が良い」「縁起が悪い」は吉凶禍福の兆しについて述べるのであるから事前に使われる表現である。「縁」は諸々の出来事が相互依存して生起することを指すのだから、人間の言動も又、その中に網の目の中に入るという訳である。

 

「運」は完全に人間を超えているが、「縁」の方は「御縁を大切にする」とか「縁を結ぶ」とか「縁を切る」とかの仕方で人間もその中にあって意思や努力で多少は関わることの出来るものである。しかしながら、それでも人間は有限であるから、「縁」や「縁起」を全て見通したり自らの力で変えたりことなど絶対に出来ない。だから、人は畢竟、良縁を願い、悪縁を退けるために最後は神仏に祈ることになる。勿論その時、自ら意志し、努力することも忘れてはならない。

 

「運」の神は人間を超越しているが、「縁」の神仏は人間の傍に居る。
えびす神社の御祭神が「えべっさん」と愛称で呼ばれるのも、人間の傍に居る神様だからである。
だからこそ、人は十日えびすにえべっさんに御参りして祈り、縁起物を求めるのである。


 (この文章はここで終わりですが、皆様からの投げ銭をお待ち申し上げております。)

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