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【しらなみのかげ】 意識の靄も流れ流れて #3


私には、何故だか知らないが頭の働かない時がある。
頭が働かないというよりは、意識に靄が掛かった様になる時と言った方が正確かも知れない。そして、頭痛がする訳ではないが、頭が少し重く感じられる。そういう時は、兎にも角にも何かに集中して取り組む事が中々出来ないのである。感覚なり思考なりを一つの焦点の内に繋ぎ止める「メタ意識」という意味における「注意力」が、文字通り直ぐに散乱してしまうのである。このメタ意識が散乱するから、意識が如何にもこうにも凝集しない。そして、「靄が掛かる」のである。それはまるで、眼鏡なりカメラのレンズなりに薄っすらと埃が付着していたり、指紋が付いていたりして、目の前にあるモノに中々上手くピントを合わせられない様な体験である。何を見ていても、白い靄の様なものが付き纏う。特に何か特定のものに能動的に注意を向けるのでなければ特に気にならないが、能動性を発揮しようとした途端に、この靄が気に掛かって仕方が無くなる。そうすると殊に、目の奥が少し重く感じられる様になる。
身体は特に別状無く、また特に気分が優れない訳でもないが、時折この様な状態に囚われてしまう時があるのだ。これは、私の様な種類の人間に付き纏うADHDという発達障害に特有のものなのかも知れない。


これは非常にもどかしい。
何と言っても、そこからの抜け出しようが解らないのである。
眼鏡やカメラのレンズであれば、拭き取れば良い。然し乍ら意識の靄は、如何にもこうにも拭き取りようがないのである。こういう時は仕方が無いので、コーヒーを飲んでカフェインを入れたり、或いはエナジードリンクを飲んだり、煙草を呑んでニコチンを入れたりする。するとスッと薄っすらとした靄に囲まれた檻から抜け出せることもあるのだが、それも時と場合による。気分転換に外を歩いたり自転車に乗っていると、スッと解き放たれて意識が澄明になる時もある。しかしそこから家なり作業場なりに戻って来たら、また意識の辺縁から靄に囲繞されてしまうこともあるのだ。


この意識の靄に囚われている時は、最近なら大体Youtubeの動画を延々と見てしまったり、延々とTwitterのタイムラインを眺めて良いツイートがあればリツイートを繰り返したり、ずっとネット上の記事やWikipediaを見てしまったり、手近な所にある本を捲っては戻して他の本を手に取るといった行為を繰り返してしまう。要するに、一つの枠組みに集中しなくても出来る事を次々と繰り返してしまう(「一つの枠組み」を避けるこの傾向は、多くの場合アニメや映画すら遠ざけてしまう)。そして段々、そうした行為の連続に身を任せている自分が嫌になるのであるが、同時に、この様な半ば受動的な行為が持つ快楽に浸っている部分もある。そして、その様な中でも断片的にであれ「何か」を学んでいたりすることもある。


それで、そうした意識の状態そのものに今この文章を書きながら意識を向けているのだが(この文章の執筆に取り掛かる迄にも実は時間が掛かった。自己の能動性を最も必要とする「取り掛かり」が特に大変である)、ふと気が付いてみれば、我々の気分というのは抑も何か偶然的なものである。それは、何か因果関係だけで説明出来ない様な変容を刻々と遂げているのである。その微細な気分の変容、その偶然性に気付く事−見上げれば、大空の雲は日々違う形をしているし、同じ晴れでも同じ雨でも同じ曇りでも、その日その日で微妙にその質感は異なっているではないか。「太陽が眩しかったから」アラブ人を殺したムルソーではないが、その時その時の天気によって気分が異なるのは当たり前だし、天気によらずに気分が異なることも当たり前なのである。しかも気分というのは、抑もの所、意識の流れの中で変容するものなのである。注意力が強く働き過ぎている時も、注意力が散漫な時もあるが、その状態は常に或る種の偶然性に晒されている。気分を一種の実体として捉えて固執したり、因果関係のみでその変容を考えたりすることが、むしろ一面的なのだ(しかし同時に、こういう風に考えること自体、意識に統一を齎そうとする「メタ意識」としての注意力に因るのであるから、一概に否定し切れない部分もまたあるだろう)。


だからこそ、切迫していない状況でもない限り、その時その時の注意力の機能不全を余り深刻に考える必要性は無いのだ。時には気分の偶然性に身を任せることも時には大事である。意識に靄が入り込んでくるのも偶然ならば、その靄が流れ去るのもまた偶然に因るのだ。但し、靄の中での果てし無き連鎖に飲み込まれてしまい、注意力を取り戻す緒を全く手放してしまうことだけは避けなければならないが(そうしなければ「仕事」は出来ない)。


「万物は流転する」と説いたあの古代希臘の哲人ヘラクレイトスがいみじくも言う様に、人は「同じ川に二度入ることは出来ない」のである。
この言葉は、言うなれば次々と成り行く勢いである気分こそに当て嵌まるのだ。


(この文章はここで終わりですが、皆様からの投げ銭をお待ちしております。)

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