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【しらなみのかげ】 戦いにあっても、いつも心にオアシスを #20

「空虚になる。−いろいろな出来事にかかわりすぎると、ますます自分の力が残り少なくなってゆく。だから大政治家たちは、全く空虚な人間になることがある。それでいて彼らもかつては充実した豊かな人間であったのかもしれないのだ。」(『人間的な、あまりに人間的な』Ⅱ三一五)
※引用は(渡邊二郎編『ニーチェ・セレクション』平凡社ライブラリー、2005年、p.77)

 

 

此の所、我が身に降り掛かってきた「戦い」のことしか考えられなくなっている。

 

「戦い」に如何に勝つのかを考えている時のみ、アドレナリンが次々と脳内で放出されていることが分かる。私は勿論、戦争になど行ったことがないが、戦闘状態に於ける一種の興奮状態の如きものはやはりあるのだろうと今の我が状態を省みるに思わされる。それ以外の時はどうかと言えば、恰も軽度の鬱症状の様な状態になってしまう。普段は非常に気が多い性分なのであるが、他の事に余り興味が持てない。

 

昨日など、楽しみにしていたW杯アジア最終予選のサウジアラビア戦を何と試合後に南野、伊東の得点により2-0で勝利を収めたという段階になってから知った。大変悔しかった。仕事のせいで観られなかった中国戦の時に、次のサウジ戦は絶対観ようと心に誓っていただけに、痛恨の極みである。自国の代表チームが勝ったのに、痛恨の極みと言うのも何とも奇妙なことであるが。

 

 

兎に角こうなると、自分の中にある筈の豊かさが喪われている様に感じるのである。思考の鋭敏さや感情の豊饒さが以前の様には働かないことを自ら感じるようになる。恰も、酷い二日酔いの朝の起き抜けの如く、鈍重になる。余りにも多くの問題に拘わなければいけなくなると、人間というのはこうなるのかと今更ながら気付かされる。

 

 

 

歴史を紐解くと、生涯の殆どを戦場で送った人の物語が沢山出て来る。

とりわけ、日本の中世などを見ると、生まれてこの方ずっと戦に明け暮れている人物が山の様に出て来る。元弘の乱・建武の乱以来の南北朝争乱、それから享徳の乱や応仁の乱など、何十年も断続的に戦乱が続く時代であれば、そういう人生を送ることにもなるのだろう。「舐められたら殺す」を地で生きて果てし無い闘争に生涯を捧げた中世人達の心中や、如何なるものか。

 

不思議なことに、そんな時代に於いても、数多くの文化が栄えたのである。

現代に迄続く日本文化の基礎の多くは室町時代に築かれている。動乱の時代にも拘らず文化が栄えた事例は世界史の中でも多くあるが、室町はそんな時代であった。

中世人の多くは、打ち続く動乱と混迷する情勢の中でも風雅の道を忘れず、神仏に対する強い信仰を抱いたり、禅道に打ち込んだりしていた。野蛮の最中で自らも野蛮に生きつつも、最後の部分で人間として生きることを忘れずにいるかの如く。

 

 

彼等と同じ地平に生きる者ではないが、現代の本邦でも、別の形で終わりなき政治闘争の予兆を感じている。昨年、立憲民主党と日本共産党による野党共闘はジェンダー主流化の名目の下に進められたが、10月の衆院選に於ける議席の減少を鑑みるに明らかに失敗に終わった。その間に大きく伸張したのは、地元大阪を完全に「征服」し、他の地にも侵攻しつつある日本維新の会である。

 

今、維新の会はその攻撃性を剥き出しにし、その領袖である橋下徹氏をヒトラーに擬えた菅直人氏に猛攻撃を加えている。彼等は彼等で、かの「オープンレター:女性差別的文化を脱するために」に代表される如き、ジェンダーの名の下に行われる「キャンセル・カルチャー」の手法を学んでいるのかも知れない。彼等はきっと、オープンレターに立て篭もらんとする人文系の学者達とは比較にならない、より庶民の心に届く仕方でその手法を実践するだろう。菅直人氏の言葉尻に対する彼等の執拗で旺盛な攻撃は、例えば安倍前首相の事案を想起した時、菅直人氏の発言を擁護している左派の者達にも見られたものではないだろうか。

 

政治の場面では、こうして既に緩やかに狼煙が上げられている様に思える。

 

 

「舐められたら殺す」の精神が、かくして復興せんとしている。

この様な乱世に於いては、平時の様に直ぐに謝ってしまえば「負け」になってしまうだろうから。

 

その殺伐たる情況への移行を、かの「オープンレター」は証明してしまった。

曖昧な仕方で槍玉に挙げられた呉座勇一氏が自らのツイートについて公式に謝罪したが、恰も十字架の如く、彼の名前を連呼する「オープンレター」は延々と掲げられた。数々の事務手続き上の不備があったにも拘らず一言の謝罪も無い「お知らせ」に於いては、今年の4月まで掲載され続けることになっている。

 

 

然し乍ら、先に述べた様に、「戦い」に関わり過ぎると心はまるで沙漠の如くなる。吹き荒れる砂嵐の様な興奮と衝動、そして形を絶えず変える砂丘の如き転変がそこにはあれども、大地を潤す水は無い。満天に広がる青空と星空の美はあれども、そこには一草一木の彩も無い。だから、その様な沙漠の中を生きなければならないにせよ、オアシスは絶対に必要である。少なくとも、余りにも多くのことに拘い過ぎて心を沙漠の如くしてはならない。

 

中世人達もきっとそうであった様に、私達人間は争いにあっても尚、オアシスを求めるのである。

 

 (この文章はこれで終わりです。皆様からの投げ銭をお待ち申し上げております。)

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