物語と、形而上学と、

雁琳の『晦暝手帖』

〈以下の文章は、2014年10月に山武正弘(やま、)氏によって刊行された同人誌『あじーる!特別号〜そうかつ〜』に収録されたものである。同誌は現在入手困難であるため、ここに収めることとした。書き殴られた散文詩のような、或いは哲学的なアジ演説のような、何とも言い難いこの稚拙な文章を読み返していると、私が現在もなお考えつつあることの核心が幾つも現れているように思えてならず、こうして掲載した次第である。〉



吾々は永い夜のなかにいる。
ぬばたまの夜のなかで坐っている。
吾々は考えている。
夜の深みに触れ得るものは僅か吾々だけだと。
吾々は考えている。
吾々はあらゆる「自由」に倦んでいるのだと。
——いまは晦冥に目を凝らすことが吾々の任務だ。

吾々は識っている。
歩き回り喋り続けることに最早何の意味もないことを。
吾々は識っている。
いとも緩慢な死がすでに末梢神経や毛細血管を冒しつつあることを。
吾々は識っている。
それでも吾々の血潮はなお奔流をなして今まさに流れていることを。
吾々はたしかに生きている。

夜は感官を昂らせる。
暗闇のなかで平然としていられる吾々だけの特権。
吾々だけが五官の齎すあらゆる虚偽と錯誤を自覚している。
吾々だけが果てしない喧噪のなかに幽し嗚咽を聴き取っている。
吾々だけが心地よい微風のなかに硝煙と血の匂いを嗅ぎ取っている。
今や吾々だけが居る。
頭だけが妙に冷えている。
宣戦布告を静かに待っている。
叢を音もなく這う毒蛇の如く。

総括せねばならない。
語るべきもののみを語る秋は来ているのだ。
吾々は、
吾々は、
吾々は——

来るが良い。
物語は再び緞帳を上げる——

 現代は危機の時代である。危機とは言えども、喉元に刃を突付けられているのではない。寧ろそうではないからこそ、危機は深く進行しているのである。一切のモノは溢れんばかりに出揃っている。余りに何もかもがお手軽に成り果てた挙げ句、一切のモノが単なる付属品に貶められている。全ての救済が陳腐になってしまったどころか、救済など存在しないという言明までもが陳腐である。ここではキッチュでないものは存在し得ない、全てがキッチュであると言うことも出来、そうでないとも言える。現代を覆うのはそういう類の危機である。そういう意味で、吾々は正に「出口なし」の状態にある。今や一切の行動は底無し沼での足掻きか、そうでなければ無粋な乱痴気騒ぎでしかない。ニヒリズムは、吾々の大地と骨髄を静かに、確実に冒している。

 一切の正攻法は既に世迷い言である。最後の審判の不在は決定的なのである。あえて吾々は逆説的なことを言わねばならない。今、真に必要なのは、新時代の賢者たちによって散々に否定されてきた、古色蒼然たるものだ。千々に破り捨てられたものの欠片を拾い集めなければならない。無論単に喪われた者を取り戻すという野暮なことを試みるわけではない。かような営みが全くの徒労であることを吾々はよく識っている筈だ。

 そうではない。最早素朴に信じることの出来ないものを、あたかも素朴に信じているかのように振舞うことこそが喫緊なのである。真剣に巫山戯ることだけが、真剣で有り得る。本物と見分けの付かない擬制は既にして本物である。思索と想像の果てでは、「かのように」ということすら消え入らねばならない。こうして吾々は二重の現実を構想するのだ。そういうものとして、私は形而上学と物語を、自足した風土と生活空間を取り戻すべきであると堅く信ずる。構成的原理ではなく統制的原理として、旧きものを甦らせる、いな、全ての精彩を伴って甦ったかのように考えるのである。

 これは危機の存在自体を隠蔽し、危機との直面から逃げるためではない。真相は逆である。深淵に呑み込まれて自分自身が深淵そのものに成り果てることを防ぐため、深淵に面するなかで常に生じ続ける精神の偏差を正すため、形而上学と物語を必要としているのである。飴のように引き延された倦怠は吾々を何処までも追撃し、足許から肉体を蕩かし、やがて融解させていく。吾々は闘争し、そして逃走するのである。

 これから語る三つの小話は何れもそのための簡単な準備である。この時代に思索することなど無意味だ、という訳知り顔の御意見は山ほど出るかも知れぬ。しかし、無為に無駄なことを繰り返さないために、敢えて自ら無駄なことを行うことが必要なのである。同じ無駄なことならば労力の少なきものを選んだ方が良い。
 「行動せよ」と叫ぶ政治主義者に抗して吾々は叫ぶ、「思索せよ」、そして「夢想せよ」と。


1.流体の形而上学
 一切は流転する、と古人は言う、人は二度同じ川に入ることは出来ない。子川上に在りて曰く、逝く者は斯くの如きか。昼夜を舎かず、と。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす——全ては「流れ」だ、時間と空間の区別が生い立つ前の始源の実在は流体だ。流れは絶え間無く流れ続け、一刻一刻目紛しく相貌を変える。しかし、それは流れ以外の何かになる訳ではなく、流れども依然として流れそのものである。流れとしての流れは不変であり、普遍なのだ。更に先へと進んで、究極的に巨視的に考えれば、流れと流れを根本的に区劃するものなど存しないのであるから、流れの総体たる流れそのものは不可分であり、不生不滅である。流れの総体とは、全宇宙のことである。

 無数の大小の流れが在る。時に、流れと流れは共鳴する。時に、流れと流れは衝突する。流れと流れの果てし無い交合は、響きを産み出す。響きはまた新たな無数の流れをつくり出す。響きは干渉や緩衝それ自体であると同時に、衝撃それ自体である。この響きとは、吾々に馴染み深い言葉で呼ぶならば、「出来事」のことである。出来事は常に余りに微細であって、捉えることは余りに難しい。それは、微分的な差異そのものであり、最小の強度である。吾々の言語は出来事に対して常に遅れ続けている。その蠢動は、吾々の閾値を遥かに下回っている。出来事は、根源的に認識=経験不可能なものだ。

 流れそのものは各々、質と強度によって成る。箇々の流れは余りにミクロで限りなく 透明に近いので、実際には遥かに凝縮された形で、質的な多様の強度をもった「動き」そのものとして、持続として吾々の直観に映じることとなる。吾々は言語や観念を用いてそれを截然と切り取って、更に「形」を与え、そこから静的な、固体的な世界を紡ぎ出す。しかし、それら整然たる世界はやはり常に既に遅れ続けているのだ。

 確かに、吾々にとって、流れを流れとして直截に語ること、響きを響きとして直截に語ることは至難である。何故なら、それらについて語り始めようとした途端、「その流れ」「その響き」としては常に既に過去の彼方に消え入っているのである。海神の囁きは波の碎け散る音に掻き消される。響きも流れも本質的には精確に語ることが出来ないのである。世界の運行を具に観じていても、飽くまで吾々は只管にそれを考え続けることしか出来ないのだ。いな、より正確に陳べるのであれば、移ろいゆく質感の多様を飽かず眺め続けるなか、その存在を予料し続けられるのみである。

 しかしそれでは、吾々は何も語ることが出来ないのではないか。一体、吾々は現に何を見て、何を語っているのか——それは「形」である。
 一切の流れは絶え間無く交じり合って響きを作り出す。響きは、時に諸々の流れの吹き溜まりである。そこでは流れが定められた方向をもち、「形」をなす。恰も静止したかのような様相を呈する。その時、永遠普遍の本質の萌芽、イデア的なるものの幼体が生い立つ。「形」として截然たる個体性を持つようになるにつれて、精霊のごとく離脱したイデア的なるものを今度は一層強く「受肉」するようになる。その反復される自己運動のなかで「形」自体が永遠なるものとしての性格を持ち、「イデア」そのものとなる。イデア的なるものは、「形」の本質の鮮やかで簡明な抽象物である。しかし、それは抽象されるのではなく、自生するのである。「形」は、永遠なるものへと通ずる習慣の具現である。「形」は成長する。

 しかし、「形」も実態は飽くまで可視の形態へと凝固した流れであり、響きであり、出来事である。或る意味で、流れは、響きは、出来事は、超越論的なものである。それらは、そのものは経験に与えられているのに、本然たる姿を現わさずに擬態しているのであり、「形」という仮面が移ろい、生成と消尽を繰り返す間に、僅かな裾をちらつかせる。そうすることで、吾々を経験の向こう側へと誘惑するのである。吾々は、経験不可能なものを常に既に経験しているのである。全ては、超越論的—経験論的である。

 「形」の世界は、流動と固成の弁証法的な統一であり、或いは常に未完の統一である。それは、秩序の世界であるか、その生成過程の世界である。「形」の生成は世界の秩序化であり、位階序列化である。凡ての観念と言語もまた、「形」である。
 その一方で、流れ流れる「自然」(じねん)は無底である。諸々の出来事の生起そのものには何の根拠付けも必要無い。そこからそこへと、ただ次々と極微なる捉え難いものが、生起するように生起し続けるのである。

 しかし、形と自然はどのようにして同じものであり得るのだろうか。
 相反するように思えるこの二つの在り方を接続しているものが、流れや響きに内属する「力」に他ならない。流れとは、響きとは、力の同義語でもある。流れも、響きも、強度であるからだ。強度であるゆえに、影響を与え合うことが出来る。錯綜するベクトルのなかで、そのうち一定の力は凝集して形状をなす。力そのものが「形」を形成する「形」となるのである。その時、自然の無常の流れのなかに俄に眼が開くこととなる——

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