見出し画像

【しらなみのかげ】「東南アジア」は雲と虎 #30

今日はシンガポールの著名な映像作家であるホー・ツーニェン氏の講演をウェビナーで聴いた。京都芸術大学大学院と一般社団法人HAPSの主催である「GLOBAL ART TALK 033 ホー・ツーニェン氏「空白の時を位置づける (キュレーションの諸問題)」という講演会である。現地に行きたかったものの、京都芸術大学の関係者しか立ち入れないということで断念せざるを得なかった。
 
 
イベント概要には次のように記されていた。
 
 
「来る7月2日(土)14:00より、一般社団法人HAPSとの共催による世界的なトップクリエイターを招聘したトークイベント「GLOBAL ART TALK」第33回「空白の時を位置づける (キュレーションの諸問題)」byホー・ツーニェン氏(アーティスト)を開催します。

「軍事スパイやゴーストライター、民話に登場する妖怪など、 歴史の舞台裏に潜む空疎な存在に、スクリーンを通じて イメージの身体を与えるホー・ツーニェン。近年、発表された 日本三部作《旅館アポリア》(2019年)、《ヴォイス・オブ・ ヴォイド̶虚無の声》(2021年)、《百鬼夜行》(2021年)は、大きな話題となりました。この講演は、日本で制作されたこれら3作品以外に目を向け、ホーの広大な芸術領域の 枠組みに三部作を位置づけようとする試みです。焦点となるのは、 アルゴリズムによる動画データベースのオンラインプラット フォーム《CDOSEA (東南アジア批評辞典)》(2017年~、https://cdosea.org/ ) と、許佳偉と共同でキュレーションを 行った第7アジア・アート・ビエンナーレ(マレビトの出会いと知恵の贈り物を待つ「山海の彼方からの見知らぬ人」が テーマ)。この構成には、時間の概念と知覚をめぐるホーの哲学的関心が含意されており、異なるメディアの時空間に「歴史」をどう位置づけるのかの考察が行われます。それは、キュラトリアル実践における問いでもあります。」(ホー・ツーニェン)
以下にイベント概要のアドレスを載せておく。
 
 
https://www.kyoto-art.ac.jp/events/2304
 
 
不幸にしてホー・ツーニェン氏の作品を展示としては見に行ったことが未だないが、京都学派を扱っているということを知ったきっかけで以前からとても気になっているアーティストであった。昨年の「KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭」に氏の「ヴォイス・オブ・ヴォイド-虚無の声」が来ていたことも後で知ったという不注意ぶりである。
 
 
講演の内容は、ホー氏の制作のモチーフとなる思想についてであった。
シンガポール出身のホー氏は、まず「東南アジア」という地域の枠組みが殆ど大東亜戦争後になって主張されるようになったことに触れ、「東南アジアという地域を如何に考えられるのか」という問いから始まった。そして、インドシナ半島北部から雲南省、シャン高原、そしてビルマ東北部に広がる「ゾミア」と呼ばれるアナーキーな生活を営む山間部(これについては人類学者ジェームズ・C・スコットによる同名の有名な著作がある)、そして、フィリピンの南西とボルネオ島の北東に位置する交易と海賊の舞台スールー海に着目し、英蘭西米などの植民地時代や日本による侵攻に触れつつ、その一つの答えを「雲」と「虎」という自身の前々からの作品のモチーフへと求める。
 
 
要するに氏は、この地域に近代以前より存在するアナーキーで横断的な秩序形成に着目し、そのモチーフを、フランスの芸術哲学者ユベール・ダミッシュの『雲の理論』にインスパイアされた「雲」(氏は「未知なる雲」(2011年―2012年)という作品を制作している。https://vimeo.com/118308608)と、マラヤに於いて古来よりシャーマニスティックな神話的存在として一種の崇敬の対象であったが植民地時代に絶滅させられた「虎」に求めているようである。「雲」という形象には、空間でもあり同時に形象でもあるものとしての意味が、そして「虎」という形象には、嘗ての神話的な存在であり歴史の中で絶滅させられてメタファーとして残り続けているものとしての意味が看取されているようである。その後、道路測量を行う公共事業監督官ジョージ・ドラムグール・コールマンに虎が飛びかかって経緯儀を破壊する様を描いた『シンガポールでの妨害された測量』(1865年)というハインリッヒ・ロイテマンの木版画が虎と人間の共生の崩壊の象徴として言及され、そして、大東亜戦争時にシンガポールを占領した「マレーの虎」山下奉文や「怪傑ハリマオ」のモデルとなった谷豊へと話が移り行く。話を聞いていると、何か実体として摑むことの出来ず、消えては現れ、人間と自然の境界を撹乱する幽霊の如き原型的イメージが、アナーキーな土着性を湛えて透かし見えてくる。
 
 
興味深いのは、博学極まりない氏のイメージ渉猟が単にシンガポール、そして東南アジアを巡る近現代史に止まらない点である。
氏が紹介する如く、この「雲」という形象が、『不可知の雲』という、西洋中世後期のキリスト教神秘主義における瞑想の指南書にも接続されている点である。又、その「空間でもあり形象でもある」というダミッシュの見出した性質は、中国絵画において枠の中に更に枠があることを歴史的に論じた、Wu Hungの《The Double Screen: Medium and Representation in Chinese Painting》(Reaktion, 1996年)へと接続される。そこに禅仏教的な無のイメージが透かし見られ(西田幾多郎の影はこの辺から来ていると氏は質問にて語っていた)、氏のルーツでもある中国文明が巻き込まれる。
 
 
氏の視点は、植民地主義や日本の戦争を痛烈に批判しつつもそこだけに視点を収斂させることなく、歴史と自然を巡る事態の複雑性という点に特徴がある。昨今「ポストコロニアル」と冠するものの極めて糾弾的で政治運動的な調子に辟易している私にも(これは全てをアイデンティティに基づく政治的党派性に回収するという意味においてフェミニズムと並んで所謂「人文系」を腐敗させている根源であると考えている)、こうした話は必ず考慮すべき視点を内包しているように思われた。寧ろ厖大な参照項を様々なイメージの断片として集積して両面性を暴き出していくホー氏の仕事の仕方には、歴史と形象を巡る様々な事象を多層的なネットワークの境界的な揺らぎとして捉える姿勢が見て取れる。政治性のみに傾かずにイメージを考えるための道は、あらゆる文化事象を政治運動化していく手前に、まだあるように感じる。
 
 
以下は、まだ見られていないが、ホー氏の仕事の内でネットにて観ることの出来るものを置いておく。又これも改めて鑑賞して論評してみたい。
 
 
『未知なる雲』(2011年―2012年)
https://vimeo.com/118308608
 
 
『一頭あるいは数頭のトラ』(2017年)
https://vimeo.com/279208595
 
 
『東南アジア批評辞典』(2012年〜)
https://cdosea.org/#video/c
 
 
 (この文章はここで終わりですが、皆様からの投げ銭を心よりお待ち申し上げております。)

ここから先は

0字

¥ 1,000

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?