技術に従いつつ、抗して

雁琳の『晦暝手帖』

〈以下の文章は、2012年5月に山武正弘(やま、)氏により刊行された同人誌『あじーる!創刊号』に収録されたものである。同誌は現在入手困難であるため、ここに収めることにした。今読み返すと昔の己の稚拙さを思い知るが、私の問題意識を構成するエレメントが見出される。そこで、一つの記録としてここに収めることにした。〉


1.技術と現代
 現代は技術の時代である。言うまでもなく我々の生活のうちのあらゆる領域が技術によって支えられている。電気、水道、ガス等のインフラ、食糧の生産から流通、あらゆる娯楽。工場では最新鋭のオートメーション化された機械が製品を製造し、証券所ではコンピュータが只管膨大な計算を続け、インターネットを介して世界中で物品の流通や販売が行われる。我々の生活を便利にしているもの、我々は通常それらを「技術」と呼ぶ。併し日常語としてはそうであったとしても、眼前で働いている様々な機具や装置それ自体は「技術」ではなく、「技術的なもの」ではないだろうか。例えば、技術に関して我々は「知的生産の技術」等という言い方もする。其の場合指示されているものは、物質的な事物ではないことは明らかである。より科学技術的な文脈で考えてみても、漠然と「何らかの目的を実現する手段」のようなものを「技術」と呼ぶ。何かを精密に分析したり、高度な機械を生産したり、複雑な事象を管理したり、ということを可能にしている手段に「技術」という言葉を普段充てているだろう。「ロケットを作る技術」「100億光年先の星を見る技術」というようなものがそれである。よって、技術それ自体というものがあるとすれば、それは決して五感で覚知出来るような「物」ではないだろう。勿論、眼には見えないが物理学的に存在が確かめられ得るような小さな粒子等でもない。こうやって考えてゆくと、箇々の「技術的なもの」を挙げる事は極簡単である。眼前にある何らかの機械でも名指せば良い。併し、「技術それ自体」が何であるのかを言当てることは至難に思われる。技術それ自体は我々にとって非常に親しいものでありながら、謎に包まれている。敢えて言うならば其れは「技術的なもの」を「技術的」足らしめ、「技術的なもの」という形で存在させている何かであるという事だけは確かである。この、此処に名指される様々な事象の裏に流れていて、技術的な事象を技術的な事象足らしめているものとしての「技術」こそ、我々が此れから問い尋ねるものである。

 技術の問題は或る時期以降常に我々の現在の問題であり続けている。というのも、技術は我々にとって非常に両義的であるからだ。我々の生活を絶えず支えているものでありながら、時として我々に毒牙を剥く。此れは公害や原水爆、環境破壊でも既に明瞭ではあるが、一年前の東日本大震災による原発事故に直面している現代の日本人には特に喫緊の問題であるのではないだろうか。原発は「安全に効率よく国民に電力を供給するという目的を達する手段」として考えられるか、少なくともそう喧伝されてきた。併し其の「安全神話」は天災を前にして脆くも崩れ去り、稍もすればそれが人間の全生活を簡単に破壊するという事が現実になっている。福島第一原発から半径20km以内の警戒区域は、単に人外の土地になってしまったというのではない。其処では人間の住まう大地の全てが、我々には覚知され得ない放射線によって破壊されてしまった。無人化されたことで、半永久的にあの土地からは、神々は姿を隠し、歴史は消え失せてしまった。何故なら神々と歴史を顕現させる事が出来るのはそれらを仰ぎ見守る人間達が必ず必要だからである。

 技術の問題による大惨事が起こった際に「技術が暴走する」というようなことが言われる。そうして、屢々「技術の制御」ということが問題になる。其処では普通暗黙裏の内に技術が人間によって作られたものであるから、其れ故人間によってどうとでも出来るようなもの、自由に出来るものとして構想されている。「技術が暴走する」という言葉の裏側には「悪いのは人間である」という或る了解が潜んでいる。確かに当然のことながら「技術的なもの」はロケットから日曜大工の工具迄程度はあれ総て人間の手によって作り出された物、人工物であり、全て人間の行為によるものである。併し技術それ自体としての技術は単に我々が自由に作ったり使えたりするものなのであろうか。この問いはこう言い直してみても良い。技術的なものの中に我々が技術を据えているのであろうか。何かを道具として使う時我々使用者が主体になっていることを考えれば、技術的なものの中に何か「技術」なるものを据えているのは我々のようにも思われる。併し果たしてそうだろうか。其れは未だ答えの出ぬ問いである。

 此処で一先ず振返り我々が「技術の問題」に直面している時にどのような解決策を取るのかということを先ず考えねばなるまい。例えば、鉄道なり自動車なり何等かの事故や欠陥が見られた時、我々は其れをどのような視点から見て、そして考えるだろうか。何処の部品に欠陥があった、此処の装置が上手く作動しなかった、先ずそのようにして技術的な視点から考えるだろう。我々が「技術の問題」を口にするときは、須らく「技術的なもの」が技術的に上手くいっていないということ、則ち「技術的問題」を考える。言わば、我々が「技術の問題」と呼んでいるのは「技術的な問題」であって、技術そのものの是非や構造に関する問題ではない、ということである。「技術的な問題」は「技術的に」考えられ解決される。寧ろ其の様に、新しく技術的なものを開発することによって深刻な技術的欠陥を補填することを人間は強いられているのではないか。だからこそ現代技術の目覚しい不断の発展が続いているのではないか。仮令箇々の「技術的なもの」が上手く機能しないことはあれども、技術其れ自体は常に滞り無く機能し続けている。ハイデガーがシュピーゲル対談の中で語ったように、「全ては機能している」のである。そして、実のところ、「暴走している技術」と呼ばれるものとは、此の「技術」其れ自体に他ならないのである。

 技術とは何か。今こそ其の本質を問わねばならない。我々は此れ迄余りに其の周辺の問題に拘わせられてしまった。今迄散々確認してきたように「技術的なもの」と「技術其れ自体」は領域的に全く異なっている。そして、「技術の本質」とは後者の事なのである。この「技術の本質」は技術に覆われた世界の中では常に度外視され、忘れられてきた。我々は常に技術の支配する世界、技術的世界とでも呼ぶべき地平の中に閉じ込められていて、大抵はその檻の中で動き回ってきただけである。ただ僅かな人びとだけが檻そのものについて考えてきた。そして、恐らく初めてこの檻の正体というところに本格的に問いを投げかけた人こそ、マルティン・ハイデガーである。

 彼は、幾つもの講演や論文の中で近代科学技術について論及しており、後期の思索の重心の一つは正に其処に充てられている。彼の技術論は、現代という「完結した形而上学の時代」と対峙する際に必然的に築き上げられたものであって、決して単なる言及に止まらない全体的な視野に立つものである。其処には、技術(Tecknik)の語源である古代ギリシア語「テクネー」の方から思索された「技術の本質」についての一つの「答え」がある。特に、技術に関して彼の最も有名な講演の一つであり、後期思想の中でも重要なものとして屢々挙げられる1953年の『技術への問い』の中において、其の事が主題として省察を重ねられている。我々は彼の思想を解説するのではなく、その省察と共に考えるという姿勢を取りたい。従って此処で「正統な解釈」等を提示する意図は更々ないものである。然し乍ら、偉大な思想とは皆そういう或る種の「畸形児」として生まれついたものでなかっただろうか。


二.技術とは何か?


 さて、我々が「技術」と呼んでいる「事物」は皆「技術的なもの」でしかないことは既に確認した通りである。そうして、我々が「技術」と呼んでいるものを少し深く調べていくと、「何らかの目的の実現を可能にしている手段としての能力や力」のようなものが大抵「技術」と呼ばれている。併し、それでは太古の昔ピラミッドを建造した「技術」や多くの工芸品を作り上げた手仕事の「技術」と、ロケットやスーパーコンピューターや先端医療機器を作り上げる「技術」との間に何の差異があるというのか。近代科学に立脚した技術と其れ以前の技術一般には抑差異が無いとでも言うべきなのであろうか。ハイデガーによれば、近代科学技術とそれ以前の「技術」の間には決定的な断絶が存在するという。この断絶は正に技術の本質に関わっている。則ちそれこそが、テクネーの本質と、現代技術の本質を隔てる深淵である、という訳である。

 技術、技術其れ自体とは一体何か。技術というのは、目的の為の手段であり、そして人間の行為(Tun)である。物事をしかるべく整えること(Einrichtung)の全体が、技術である。則ち、技術それ自体とは、しかるべく整えるものとしてのイーンストゥルーメントゥムinstrumentum(道具)である。ハイデガーが述べる如く、技術についての通俗的観念というものは、大凡斯くの如きものである。此れが現代技術も含めた技術全般に関して、誤りの無い、正しい定義であることは否定出来ぬことであろう。問題は、今迄思索されてきたように、斯様な「定義」では技術の真なる本質が露呈されていないところにある。先ず、目的の為の手段であり、人間自身の行為である技術が其の主体たる人間に制御しようも無く牙を剥くというのは如何にも不合理である。寧ろ先に述べたように此の事は道具としての技術の主体たる人間自身が逆に技術の方に幾らか以上は主導権を握られている事実を証明しているのではないか。技術は道具として規定されるものではあるが、「単なる道具」ではない。しかし、道具的なものとは抑何なのか。此処でハイデガーの言う事を纏めてみたいと思う。

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