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【しらなみのかげ】 「文字通り」の神 #9

昨晩は、酒を飲みながらインターネットで様々な論文や記事を読んで、いざ執筆に取り掛かろうとして又してもそのままホットカーペットの上で寝てしまった。京都の家はエアコンの真下にある寝床以外の場所は基本的にあまり暖かくならないし、書籍で埋め尽くされていて狭苦しい故、机に着いている時はそのまま寝てしまうことはないのだが、実家は暖かいのでそのまま寝てしまう。昨夜の様に暖かい中でふと寝てしまうと、もうすぐ戻る京都の家のあの寒さを思ってしまう。

 

さて昨日は、実家に持って来ていた飯山陽さんの『イスラム教の論理』(新潮新書、2018年)を読んだ。昨年末に同著者の最新刊エッセイ『エジプトの空の下 わたしが見た「ふたつの革命」』(晶文社、2021年)を大変面白く読んだのだが、興味が湧いて飯山さんの書いた3冊の新書を買ったのである。『イスラム教の論理』はその内、最初に書かれた本である。

イスラム教に対するヘイトではないかと批判されることもある同書であるが、イスラム教に対する所謂「不都合な真実」をクルアーンとハディースの文言に基づいて淡々と論じたものである。

私の様にモロッコやエジプトでの滞在記である最新刊を読んだ後に手に取ると、そこに論理的に書いてあることには飯山さんの実感を伴った一掃の説得力を感じた。イスラム圏に実際に生まれ生きている人々の中に混じって交流し、生活した人だからこそ、著者が「平和と寛容の宗教」の様な多文化主義的なオブラートに包まずに説明するイスラム法学の論理が生きた人間の血の通ったものとして感じられたのである。

 

『イスラム教の論理』の内容を一言で言えば、まず次の二点であろう。アルカイダや「イスラム国」などイスラム過激派の論理はクルアーンやハディースを「文字通り」に読んで実践したものである以上、イスラム教徒であればそれはイスラム教ではないとして排斥することが出来ないものであること。そして、その様に「文字通り」に読まれたイスラム教の論理は、民主主義や自由、そして人権など西洋近代の論理やそれらを(曲がりなりにも?自然に)受け入れており、文化的にも宗教に寛容な日本人には到底理解出来ない、対話不可能な側面を有するものである。但しそこには多少の留保もある。クルアーンやハディースの解釈を一義的に決定することは教理上不可能ではあるので、近代国民国家に生きる多数のイスラム教徒が必ずしもイスラム過激派に従って生活しているとは限らず、イスラム圏の多くの国々で穏健派が多数を占める事実からも分かるように、実に多様な受け取り方をしている人々がいるのも事実である。しかし何れにせよ、彼等がイスラム教徒である以上、イスラム教過激派の説く「文字通り」のイスラム教を異端として排斥することは出来ない。これが著者の解説する所である。

 

本書を一読して、唯一絶対の神、そしてその神の言葉であるクルアーンが絶対であり、最後の預言者であるムハンマドの言行がそれに沿った行動規範となるイスラム教の価値体系の完結性には改めて驚かされた。「全ては神が決めるのであり、神の言葉であるクルアーンが絶対である」世界観は、著者が言う如く、人間が抱えるあらゆる種類の人生上の困難や実存的問題を全て一挙に解決するものである。人智の及ばぬ絶対的超越としての神があり、その神がムハンマドを通じて最後の預言として下したクルアーンがある−この教理は、単なる被造物であり神の奴隷でしかない人間の責任を、その責任を作り出してしまう自由を、そこで否応無く生じる価値の衝突を、払底するのである。そうして人は、神に絶対服従することで、直接神と向き合えるのである。

この様な論理は、「文字通り」のイスラム教からすればジハードにおいて相手が改宗するか絶滅するまで戦うべき敵である異教徒、不信心者たる我々には、知的な理解は可能であっても少なくとも絶対に共感は出来ない。しかし、総ての既存の人間的価値を捨て、その中に没入してしまって生きることが出来れば、きっと絶対的な安楽を得られるのではあるだろうということはうっすらと見えてくる。

 

しかし同時に、個人的に気になったのは、そうは言ってもイスラム圏の歴史はずっとこの原理主義で続いてきた訳ではないだろうということである。イスラム教の歴史に着目すれば、かの井筒俊彦が熱心に研究したスーフィズム、そして聖者崇拝が巨大な力を持ってきたことは事実であろうし、近代になれば、世俗主義やナショナリズムなど近代化の運動が中東を覆ってきたこともまた事実であろう。原理主義とは異質なそれらの運動を把握しつつ統合的にイスラム教というものを捉えた時に、どの様なヴィジョンが開けるのかが今一度気になって仕方なくなった。

ともあれ、キリスト教に於けるファンダメンタリストと同様、原理主義とはやはり「文字通り」であることだと改めて感じた。神の言葉の「文字通り」性をキリスト教の場合は果てしない神学論争と政治闘争の中で早期に喪ったが、イスラム教の場合は途中からイスラム哲学やスーフィズムが勃興するにせよ、聖典がアラビア語の原典そのままに神の言葉である以上、「文字通り」性は必ず付いて回るということなのだろうか。

又、次の様なことを考えた。キリスト教の場合は当初より、「真の神であり真の人である」キリストを神の子として自らの内に持つ三位一体の神が信じられ、その父・子・聖霊という「人格」の重要性が説かれ、人間の主体性も又重要性を帯びることとなった。しかし、神の唯一性たるタウヒードが絶対であるイスラム教の場合はその様な契機をきっと持たないのだろう。そのことが、イスラム教に於いて人間の領分を極めて小さくし、「文字通り」性を保存したのではないか。

 

この問題については、まだまだ色々なことを考えられるだろう。その問い掛けは歴史の隘路を巡り巡って、「近代」が何故キリスト教世界に於いて成立したのか、という現代世界を巡る根本的な問題へと逢着することにもなるだろう。

 

しかしこの問いは、イスラム世界に於ける「近代」とは何であるのか(或いは、何だったのか)という問いと同時に、考えられるべきものであるのかも知れない。

(この文章はここで終わりですが、皆様からの喜捨をお待ち申し上げております。)

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