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映画「悪は存在しない」

※ネタバレにならないようにかなり曖昧に書いているのでご容赦ください。

映画「悪は存在しない」
自然界では。

車でしか通えないような通学をせざるを得ない娘。だから男親の送り迎えの遅れが命取りとなり得る。母親はどこに?

エコロジーな生活をしてるようで自家用車依存の生活は全くそれに反する。自分たちも自然を破壊して住んできたとの自覚も語る。車のリアウィンドウから眺めると不安な景色と変わる。悲劇が起きる。

堆肥から出る湯気がすごかった。悪臭に鼻をつまむ娘。
これは良くてグランピング施設の合併浄化槽は反対する山の住人たち。それは山の上にあるから?人の排泄物は許せず牛の排泄物は許せる?

大人たち。なぜか車の中では人間社会の覆いを取り外した会話をし始める。

そして、二つの会話の中で、どちらともふと殺意が湧き出るシーンがある。

こういう映画なのかな?と思ったら次から次へと違う映画になっていく。そして最後のところで、それまでの悩みも笑いもまるで見当違いだったのかもと思い返してしまうのだが、果たしてどんな映画だったのか?
最後のシーンから思い直して実はこんな映画だったんだと思うことで、その前にこういう映画だと思って考えたり楽しんだことの意味が変わってしまう。現時点から見ることによる意味の転倒です。

実際の人生ではよくあることだけど、映画という社会に公開した作品でこういうことが起きるのは興味深いと同時にもったいない気もする。
つまり、それまでのシーンが全て最後の場の意味を通そうとする「伏線」と化してしまう。しかし、伏線としてではなく、それぞれのシーンがその時点でそれぞれの価値を示していたはずなのだ。

最後の池のシーンは「もののけ姫」を思い出したり、最後の最後のシーンは昔見た森のホラー映画「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」を思い出した。
宮崎駿の「君たちはどう生きるか」は、「悪は存在しない」ではなく、少年に「悪意」がある、から始まる映画だったな。人間だから。

鹿は臆病で人間とじゃれたりしないが、手負いか手負いの家族を守るためには襲うこともある。

さて、この主人公の父親も鹿であったら、普段はとても穏やかでも、突然襲うのだろう。自然とはそういうものだろう。

女親がいなくなって、男親としての役割が希薄な男が突然手負いの家族を見て、雄鹿になる。

自然界の暴力は生存本能からだけである。悪は存在しない。本能で親鹿に目覚める。
そして人間界は上から腐る。そこに「悪は存在する」?

手負いの自然は今、災害をもたらしている。

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