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形骸化の意味

岡田斗司夫ゼミ#220 の動画にて、神道はなぜ教えがないのか?(ベスト新書 島田裕巳著)の節を見ての感想です。
動画の中で岡田は新書の序説を語っています。

題材となるのは宗教研究家の島田裕巳。
神道とは日本に古くからある宗教ですが、我々現代人もまた、地鎮祭などの形骸化した儀式を行います。

地鎮祭は科学的ではなく、中には気持ちがよくなる等の効能があるにはありますが、ぶっちゃけどうでもいい形骸化しているものです。

一方で、形骸化という言葉は私が先程申したように意味のないこと、特にビジネス界では忌み嫌われる無駄なことに近い意味合いで使われます。(少なくとも私はそのように捉えています。)
しかしながら、"形骸化"しながらもその土地の四隅を木の棒と紐で囲む儀式は残っているのです。
これが宗教の最終段階だと説明されているようです。

カルト宗教というと日本では🦜のようなやばいやつという意味になりますが、本来は教祖が生きている宗教を指します。
それが100年、200年経ち教義が徐々に失われていき、最終的に1000年、2000年後には儀式や行動のみが残るとされます。

神道と同様にヒンドゥー教徒がカレーを作り、ヨガを踊るのはこのためと説明されます。彼らは恐らく牛がなぜ神聖なのかははっきり分かっていないが、神聖だから食べない。ヨガがなぜ体にいいのかメカニズムは現代の科学で追従しても、元々の教義、思想は分からない状態です。※もしかしたらわかってるかもしれませんが、でっち上げかも判断不能

ここで、現代の形骸化を悪いものとして捉えていた私の感覚は破壊され、ただ人間が教えを忘れただけだということに気がつきました。
形骸化された手順や習慣、行動、様式などは先輩方の教えに基づいた論理的思考の結晶が行動に昇華されたものという認識をしなければならないと。
それが失われていくのは非常に残念なことである。
しかしながら我々の現代科学は未だ10年20年といった期間手順や習慣のような記録を確実に保存できるものではない。
したがって、仕事上形骸化されたルール等の見直しを考える際はそのルールがまったくの悪だと決めつける事は避けたい。


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