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家族との関係

目に見えることが全てでも、絶対でもないと思っている。
目に見えない部分、見せてはいない部分にその人の本質であったり、大変さであったり、抱えているものであったり、日常があったりもする。

だからこそ目に見える部分だけで、その人を判断したり、決めつけたりしないようにしたいと思っている。

SNSが当たり前となっている今はSNSの世界が絶対、全てと解釈されてしまうこともあるし、SNSで見える部分がその人として判断されたり、捉えられることもある。

SNSは多様な人に情報を届けたり、繋がることができたり、物事を生み出したりと可能性もある一方で、誰に届くか分からない、どう解釈されるか分からない難しさもある。

だからこそ自分もSNSでの言葉、表現は意識して、あえて抽象的な言葉、語尾を柔らかくするなどしている。

もちろん配慮や想像力が足りていないこともあると思うし、意図しない解釈や違和感を持たれることもあると思う。

そこは試行錯誤していくしかないなぁと思っている。

前置きが長くなってきたけど、SNSではの発信を見てくれる人から、自由にやれていいね、充実しているね、悩みや苦労がなそさうだねなどと言われることがある。

確かにやりたがりだし、色々なことをしたり、色々なところに顔を出したりしている。

それでもそれはあくまでSNSで見せている部分でしかない。

きっと何も悩みや苦労がない人はいないと思う。
みんな何かを抱えているし、それが見えるかどうか、見せているかどうかなんだと思う。

自分にとって、それは家族のことである。

家族について聞かれるとうまく答えられないことがある、曖昧にしてしまうことがある。

それは自分にとって家族は大切な存在でありながら、複雑な思いを抱えているからだと思う。

母親のことは尊敬しているし、本当に感謝している。
自分がどうしようもなかった時もいつも信じてくれて、戻る場所を作ってくれた人だからこそ、昔も今も自分にできることをしたいと思っている。

一方で、父親に関しては昔も今も複雑な思いを持ちながら、接している。

2011年3月11日。

この日は東日本大震災が発生した日。

父親の実家が宮城で、母親の実家が岩手であり、宮城と岩手に親戚や知り合いが多くいる自分たちにとって、この日の出来事は今も忘れられない。

そして自分たち家族にとってはもう一つ大きな出来事が起こった日である。

当時、六本木にあるプロダクションで働いていて、六本木のオフィスにいる時に地震が発生し、そのままオフィスで様子を見ることになっていた。

ただその時の自分はうまく言葉にできないが、胸騒ぎがして、六本木から親と暮らす三鷹の家まで歩いて帰ることにした。

歩くこと7時間。

なんとか家にたどり着いて、一息しようと思った時に、母親が慌てて、自分の部屋に入ってきた。
パニック状態で何を言っているか分からなかったが、父親に何かあったのだけはわかり、親の寝室を覗くと、父親が痙攣を起こしながら意識がない状態だった。

すぐに119をした。

東日本大震災当日の夜。
救急車がすぐに駆けつけられないこともあり得る中で、電話してすぐに救急車が駆けつけてくれて、家の近くにある総合病院に搬送された。

父親は脳出血で、その後すぐに緊急手術が行われて、病院で父親の手術が終わるのを待つ時間は永遠に感じられた。

明け方にやっと手術が終わった。

医師からその時に言われたことは今でも忘れられない。

「脳出血で、あと少しでも搬送が遅れていたら助からなかったと思います。」

東日本大震災当日。
当時メディアにいる人間として、職場を離れることを良しと思わない人もいたと思う。
それでも帰らなければと思って歩いて帰って、パニック状態にある母親に変わってすぐに911に電話をして、そしてすぐに救急車が駆けつけてくれた。

そのどれかがなかったら、少しでも遅れていたら父親は助からなかったかもしれない。

助かったことに感謝しかない。

しかし家族の大変さは、難しさはそこから始まった。

脳出血を起こした父親は一時、半身不随になり麻痺が残った。
体を思うように動かすことができなくなり、さまざまな人の手を必要とするようになった。

少しずつ回復してきているが、リハビリを行う日々が続いた。

元々、我が強く、気に入らないことがあるとすぐに怒ったり、手が出る人間だった父親。

自分が子どもの時に父親にされたことは、許すことはできないし、今でもその時のことは忘れることはできない。

そんな父親が半身不随になり、自分の思い通りにならない体と付き合っていくことは自身で受け入れ難いことであった。

リハビリを頑張ってはいたが、思い通りにいかないことが多くあり、徐々に精神的なバランスも崩していった。

そんな父親のこともありながら、姪っ子が小児がんで亡くなり、自分たち家族にとっては本当にしんどい日々が続いた。

「その歳になって一人暮らししないの?」「親と一緒に住むとか大丈夫?」などと言われることもあったけど、父親が難しい状況になって、母親一人に父親のことをお願いするのは難しいし、自分も散々迷惑をかけてきたから、できることをしたいとの思いで、東京ではずっと親と暮らしてきた。

ままならないことが多い父親。
父親に対して、今まで我慢してきたことも多くあった母親。
そんな二人の関係が徐々に変わっていって、ぶつかることも増えてきた。

自分がどれだけのことをできていたか分からないし、それでも自分がいることで少しでも中和できたら、バランスを取ることができたらとの思いで、過ごしてきた。

姉とも話し合って、母親には自分たちのことは気にしないでいい、考えなくていいから自由にしてほしいとも伝えてきた。

それでも母親は父親との生活を続けた。

父親が倒れてから10年以上が経った2024年。

親と暮らしていた東京を離れて大阪に引っ越してきた。

正直、親と離れて、母親と父親の二人暮らしに関しては心配もあったし、東京を離れることは簡単な決断ではなかった。

それでも大阪で一緒にやりたいと思う人たちがいて、大阪でやりたいと思うことがあった。

そして姉と母親の後押しも大きかった。

「私たちは大丈夫だし、やりたいことをやっていいからね。今までありがとね。」

家族のためにできることをしたいと思いながら、かなり自由に生きてきたし、これだけ色々なことをやることができているのは、そうして後押ししてくれる人たち、見守ってくれる人たちがいるからだと気付かされる。

ありがとうと言わなきゃいけないのはむしろこっちだと思っている。

母親と父親を二人にするのは心配ではあったけど、姉も遠くない場所に住んでいるし、自分も何かあればいつでも東京に行けるようにはしようと思い、大阪での日々を過ごしている。

父親は今はだいぶ普通の生活を送ることはできているが、脳出血の後遺症なのか、それとも年齢的なことなのか理解しづらい言動をすることも多くある。

自分の父親であるから、できることはしたいと思いながら、昔されたことを忘れることはできないから、複雑な感情が消えることはないのかなぁと思っている。

それでも定期的に東京に帰ったり、先日は大阪に母親と父親の二人を招待して、息抜きをしてもらったり、間に入ったりと、できることを続けている。

家族のことは何となくは周りに言ったりもしていたけど、あまり具体的なことを話したりはしてこなかった気がする。

それでもこのnoteが誰かに届いて、誰かの力や支えになったらいいなぁと思って綴っている。

自分もそうだったけど、家族のことは周りに話しにくかったり、どうしても家族の中で閉じてしまったり、抱え込んだり、無理や我慢をしてしまうことがあると思う。

本当は周りに相談したり、周りを頼っていいはずだだよね。

だからこそ自分もこうして発信をして、誰かがもし困っていたら、しんどい思いをしていたら、無理や我慢をしていたら、気にかけたり、見守ったり、寄り添ったり、「大丈夫?」と声をかけれる人でありたい。

家族のカタチは色々あっていいし、血縁が絶対的なものでもないと思っている。

自分も「大丈夫?」と声をかけてくれる人に支えられてきたし、頼って頼られて、支えて支えられる関係を作っていきたいよね。

まとまりのない文章になってしまったし、また思ったことを追記していくかもしれないけど、一旦はここまでにしようと思う。

文:がんちゃん






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