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LIFE NEIGHBORが生まれてきたのは

青春時代、そして家族ができた

わたしが東京に出てきたのが38年前になります。
宮益坂を登りきった右手にわたしが通った日本ファッション工学院はありました。

その専門学校で、ショートボブカット(ちびまる子みたいでしたね)のコロッとした女の子と仲良くなりました。
1年くらいしたのち、彼女は熊谷の実家を出て、池ノ上で独り暮らしを始めました。

その子の部屋には、お風呂、トイレ、電話、オーディオ、ベッドと全て揃っていて、当時のわたしの生活からすると天と地の差がありました。

わたしのアパートも池ノ上でして、山崎荘という家賃1万8000円の風呂なし、共同トイレで電話の取次も無い、かなりレトロなアパートでした。
駒場東大が近いので住人のほとんどが東大生。

箱入り娘だった彼女は、買い物も1人でした経験がなく、ご近所になったわたしたちは、2人して下北沢のスーパーで買い物したり、仲間たちと遊んだり、楽しい青春時代を過ごしました。

そんな暮らしを4年続け、わたしもアパレルメーカーで営業として、全国を飛び回っているうち”文珍”というニックネーム(刈り上げ丸メガネからそう呼ばれるようになりました)で仕入先、得意先さんから可愛がってもらえるようになっていました。
所得も増えてきたことと、この子とずっと一緒に寄り添いたいとの思いが強くなり、わたしが24才の時、ラフォーレの教会で結婚式を挙げ彼女も小林から福嶋と性を変えることとなりました。

そして、長男、長女と可愛い子供たちにも恵まれました。
子供たちには出来るだけ大自然の中で、のびのび育って欲しいとの思いで、熊谷の荒川沿いの桜が綺麗な土手沿いの麦畑の中にアメリカンなお家を作りました。

2人とも野生児のようにたくましく育ってくれて、本当にこの場所に家を構えて良かったと思っています。

理想の家庭、私の勘違い

妻の昌代が考えていた理想の家庭とは、父親と子供が仲良く暮らす家庭だったそうです。
彼女は子供が父親と居られる時間は短いと思ったようで、とにかくパパ、パパと子供たちがわたしに懐くように仕向けてくれました。

子供たちがわたしに懐いてくると、母親への不満を子供たちが言うようになります。
それを間に受けたわたしは、妻に「母親としての教育はどうなっているのか」と責めることもしばしばありました。

ちょうど、わたしの仕事も忙しくなった頃と重なります。
もともとアメカジが好きだったことも幸いして、渋カジブームの勢いにもうまく乗ることが出来ました。パリ、ロンドン、ニューヨーク、バンコク、ベトナム、韓国、中国と毎月海外を飛び回り、日本に戻ってからは、商社や得意先と銀座、六本木と明方まで接待漬け(本人が一番楽しんでいました)の毎日でした。

子供たちの学校行事にも赤ら顔で酒臭いまま、参加して妻に嫌な思いをさせていたようです。

そんな家庭環境は、長男が大学を卒業するまで続きます。
長男は中学くらいから、わたしと話をしなくなりました。

LIFE NEIGHBOR

長女は、わたしの醜態を覚えていないのか、今でも仲良く付き合って貰えているは、妻のおかげだと思って感謝しています。

今から18年前、自分の会社を立ち上げる事が出来たのも、妻の後押しがあったからです。
意志の弱いわたしを崖から突き落とし、自力で這い上がる力を付けさせたのも、彼女のわたしに対する教育でした。

意志が弱く小心者のわたしですが、調子に乗ると”猪突猛進”となり周りに迷惑をかけてしまう困った男。

そんな男を、周りの方々に頭を下げ、影になり支えてくれています。
現在も、大変支えられております。

昨年末より、わたしが立ち上げたブランド『LIFE NEIGHBOR』はそんな家族の支えがあって生まれてきました。
わたしにとっては、家族と同じ存在であり、わたしにいつも寄り添ってくれています。

現在、テントショップにわたしが立ち、お立ち寄りになられた方にはポッケ服の話をさせていただいております。

わたしからすれば、家族の話をしているのと同じことですので、ポッケ服の良いことも、悪いことも、素直にお伝えしているだけです。

ありがたいことに、今年の4月29日にテントショップをオープンして依頼、1日1枚以上のお買い上げとなっていることに、正直驚いております。

これからも、一期一会の思いで、一客一客、家族の話を丁寧にお伝えしていければと思っています。

LIFE NEIGHBOR ブランドサイト
https://lifeneighbor.com/



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