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フルニエ著『アウゲイアス王の家畜小屋における不快な虫けら共の断罪と救済についての悲喜劇(全三幕)』をめぐる悲喜劇

「ヘラクレスの12の難行を全部言えるか?」
言えないだろ、という言外の意図を内包したミトさんの質問にコナチはあっさり答えた。
「言えますよ」
当然でしょと言わんばかりの口調にミトさんが明らかに不機嫌そうに黙る。そりゃコナチなら言えるだろう。ギリシャ語の原典を読めるくらいなんだから。しかし空気は読めない。
「いや、言えないすね。獅子退治とヒドラ退治くらいは覚えてますけど」
とりつくろうようにおれがそう答えるとミトさんは少し機嫌を直した。
「それが普通だな。微妙なのは忘れられる。その忘れられがちな話の一つに家畜小屋掃除がある」
記憶になかった。そもそも掃除は難行か?
「アウゲイアス王の家畜小屋は三十年間も放置されて牛の糞だらけだった。その小屋の掃除を命じられたヘラクレスは、川の流れを無理矢理変えて水を引き込み小屋を丸洗いしたって話だ」
マジで微妙な話だ。知られてなくて当然だろう。しかし何故ミトさんがそんな話をし始めたかが分からない。
「で、この話を元にした戯曲を書いたフルニエって作家がいる」
「フランスの?」
「筋書きはこうだ。ヘラクレスの掃除が迫るある日、家畜小屋の糞山の上で一匹のフンコロガシが、蠅、だに、ゴキブリ、みみずなんかの連中にご託宣を告げる。今にこの地を大洪水が襲う、その前に船をこさえて逃げ出さねばならぬと」
「ノアの箱舟のパロディ」
「そうだ。当然教会はおかんむりで即刻発禁処分。現物は残ってない……はずだった」
「てことは」
「見つかったんだ。しかも二冊」
それは大層な稀覯本だろう。しかし何故そんな話をするのかはやはり分からない。……いや。その内容の本なら。まさか。
「蠅王様が」
「ご所望だ。献上した者には望み次第の褒美が与えられる」
コナチが身を乗り出した。その片方だけの目が輝いている。ミトさんの黴の縁取る目も。おそらくはおれの目も。
「魂を買い戻せるぜ」
おれのもう無いはずの心臓が高鳴った。


【続く】

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