2年前に購入してみたものの、使う機会なくキャンペーンそのものが中断してしまったGO TO Eat。束の間の再開と聞いて、手っ取り早く予約が入った六本木のあるホテルでランチをした。
思いの外、テーブルは若い女性の比率が高く、アラフィフの夫婦は居心地の悪さを感じながらも、至るところで始まっている撮影会を眺めていた。
隣席の冴えない二人組の女の子は持参した風船を膨らまし、誕生日プレゼントでもらったのであろうイヤリングか何かが入った小さな小さなディオールの手提げ型の紙袋と共に自身のバースデーケーキの周りを飾り、角度を変えながら繰り返しシャッターを押していた。
短文の名手、関川夏央にこんな内容のエッセイがある。
地下劇場の舞台で繰り広げられる自己陶酔的な新劇。
今日の観客は明日の演者になり、今日の忍耐は、明日、舞台の上で解放される。
そんな空虚な持ち回りを、たまたま観客席に紛れ込んでいた一人の悪意のない酔漢が、理解不能なセリフや独りよがりな演出に対し無邪気に周りの観客に尋ねる。
「いったいなんなの、これ」
一人が笑えば、皆が笑う。これはいったいなんなんだ。何を見てるんだおれたちは。舞台は一瞬で求心力を失った。
幸福は、言うまでもなく自分自身の中でのみ完結される。日常を少し離れ、美味しい食事をし、会話を楽しむ。そんなシンプルで、贅沢な時間になぜ他者を求めるのか。
山内マリコの「あのこは貴族」で描かれる"階層"のように自身の現実からは到底見えないセカイを生きている人がいる。小さなディオールと写ったSNS上で共有される得意気な自身の姿がどれほど滑稽で、かつ惨めなものか。
さきの関川夏央のエッセイはこう締められている。
「いま「新劇」に必要なのは腹式発生でもセリフの朗読の訓練でもない。要するに、ひとりの善意の酔漢である」

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