25年前。大学を卒業後、東南アジアで暮らし始めたとき、住んだ寄宿舎の部屋に電話を引かなかったため、当時付き合っていた今の妻からの電話は管理人室で止まり、同じ寄宿舎に住み、管理人室で管理人と現地語の習得に勤しむ真面目で、親切な日本人の誰かが、一番端に位置していたわたしの部屋まで電話が着たことを伝えてくれた。
わたしから電話するときは、大量の現地通貨を握りしめ歩いて5分の小さな郵便局に行き、受付に国際電話番号を書いた紙を渡して電話ボックスに入り、妻の声が聞こえるまで待った。
電話代は一分4ドル。軽快に話が進めば良いが、時に喧嘩となり、妻が黙りこくってしまうともう大変で、手元の金額で通話時間がどれだけ残っているか算盤を弾きつつ、何とかこの電話一本で繋がった遠距離恋愛を終わらせないよう懸命に妻を説得した。
それでも持ってきたお金では足りず、寄宿舎まで走って戻り、足りない分をかき集め、再び郵便局に舞い戻ったことは一度や二度ではなかった。
電話は交互に掛けることにしていていたが、30分も話すと1万を超える請求となり、お互い親の脛をかじりながらの生活ゆえ、そう頻繁に使うことは出来なかった。
その穴埋めをしたのが往復の書簡であり、両国間の国際郵便では受け取りまで最低5日を要していた。郵便事情に不安があったので、妻の手紙にはナンバリングがされていたが、到着が前後することはあったものの、200番台まで続いた手紙はほぼ欠けることなく、今も青春の大事な思い出として保管してある。
トム・クルーズ主演の「ミッション:インポッシブル」の一作目が世にでたのはまさにその時代で、eメールが最先端のテクノロジーのように描かれていて、今観ると可笑しいが、その渦中にいたものにとって、電話線を分厚いノートPCに差し込み、ダイヤルアップ接続で母校の卒論指導の教員にメールを送っていた知人の日本人留学生は異なる世界の住人のように見ていた。
しかし、1, 2年先にはそれが日常となり、きれいな絵葉書を探すことも、限られたスペースに僻地での想いを収め切ることも必要がなくなった。
更に4,5年経つとメッセンジャーで、リアルタイムでの会話的やり取りが実現し、直後にはそこに音声通話機能が加わり、ネット環境下であれば無料で国境を超えて話をすることが出来るようになった。
以上が、わたしの東南アジア時代の通信環境の推移であり、帰国して15年が経つので、この激動は10年の間の出来事ということになる。
先日、レトロ風食堂のオブジェとして置いてある赤電話を前に、若いカップルがどのようにこの機械で電話を掛けられるのか真剣に悩んでいた。
妻の会社に入った30歳、立教大学出身の男の子は封書の宛先の書き方を知らなかった。
現地語ができるということで、日本に滞留せざるを得なかった人たちを帰国させる"救済便"において、MEDA(傷病旅客)ケースのメール窓口を一時引き受けたものの、SNS世代にはeメールの書き方が分からないようで、空メール、本文なし、無記名のメールばかりを受信して途方に暮れた。
科学技術の進化は、過去の積み重ねであり、決してその結果のみをもって完結するものではない。人はヒストリーをも含めそれを受け取らなければ、技術だけが漂流し、他者への想像を欠いた、血の通わない世界を招く。我々が経験した飛躍的な通信技術の発展は、人として本来踏むべき段階を一つ飛ばしに進めてしまった気がしてならない。
86歳の父が1泊2日で大阪に行った。
セブンイレブンの、お金を自分で入れるレジにさえ怖気づいて、自宅マンションの一階にある店舗に立ち寄らない人間が、効率化の進む新幹線乗り場に対応出来るとは想像がつかず、行きはチケットの購入から東京駅で新幹線を乗せるところまで夫婦で手伝った。
しかし、翌日、わたしが帰宅すると家でテレビを観ていたので、自力でチケットを買って、新幹線に乗って帰ってきたということだろう。
父のように、手書きからワープロに代わるタイミングでテクノロジーの進化について行くことを自ら拒み、現代社会に取り残された人間に、社会はまだ優しく、サポートのスタッフが配置されたり、旧態の手続きが可能な余地が残されていたりする。
年に一度行われる高校の、世代を越えた同窓会では、その招待状をeメールで一斉送信すれば済む仕事も、メールを扱えない父とその2歳下の御人だけのためにどなたかが書状にして送ってくれている。
果たして、SNS上でしかやり取りをしてこなかった若い子たちに手紙には形式があり、時としてのその必要性を伝えても、理解はしてもらえるだろうか。
手紙の宛先を書けない妻の同僚は、世の中に携帯すら持っていない人がいることに想像が及ぶだろうか。


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