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バレエ小説「パトロンヌ」(42)

「カルメン」の第1幕は、セビリアの煙草工場前から始まる。女工たちが工場から出てくるのを男たちが待つところへ、次々と登場する女工たち。その中に、カルメンもいるはずだ。しかしどの女工がカルメンなのか、ミチルにはすぐに見分けられなかった。カルメンといえば、肉感的でコケティッシュ、そして男に色目を使う…そんなイメージがあったミチルは、やせこけて黒い散切り頭、みすぼらしい衣裳の D Dの登場に、肩透かしをくらったような気持ちになった。そしてもう一つの衝撃。ダイアナ・ドーソンほどのスターが、群舞に埋もれてしまうなんて……。

史上もっとも貧相なカルメン…
他の女工たちを踊る日本人ダンサーたちが、人一倍色気を前面に出して演じているからかもしれないが、そんな言葉さえ浮かんできてしまうようなDDカルメンの登場だった。

ところが次の酒場のシーン、赤いぼんぼりの下、扇を使いこなして踊るDDを観ているうちに、そうした違和感はどんどん薄らいでいく。タバコ工場の前では生気を失っていたカルメンの瞳が、キラキラと光りを集め、ホセだけをみつめているのだ。カルメンは工場前で身につけていた「鎧」を脱ぎ捨て、次第に本当の姿を現していく。本当の心の姿。「貧相」だったカルメンは、徐々に徐々に、魅力的なカルメンへと変貌する。DDは踊ることで、カルメンの内面を彫り出していったのである。

そこに有名な「ハバネラ」の音楽が流れた。オペラではカルメンが羽をつけて飛んでいく恋心を歌い、独壇場になるはずの曲だが、なんとここで、甲斐がソロを踊ったのだ!

「恋は野の鳥、誰も手なずけられない」
「あなたが私を好きじゃないなら、私が好きになる」

最初に一目惚れしたのは、ホセ。まっすぐに、一途にカルメンを思うホセの心を、甲斐は針金のようにピンとした脚、バネのように反り返る背、一分のブレもなく、素早く回ってはピタッピタッと止まる回転をもって、挑むように踊った。完璧だ。のけぞるほどにカッコよさに、ミチルは思わず大きなため息をついた。

DDカルメンもまたこの甲斐のホセに魅入られたか、見事なソロの踊りを終えるころには、もう D Dでなければカルメンでない、と思えるほど役と一体化していた。酒場の二階にしけこむ二人。「ハバネラ」の「私があなたを好きになったら、せいぜい用心することね」という歌詞など、すっ飛んでしまうほど、二人は激しい恋の渦にのみこまれていく。

そして「寝室のパ・ド・ドゥ」。こんなにも官能的な、こんなにも直接的な性愛の描写を、ミチルは舞台の上で、初めて目の当たりにしたのである。(つづく)

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