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バレエ小説「パトロンヌ」(1)

前奏曲(プレリュード)

佐川ミチルはゆっくりと宮益坂を上っていった。一人で夜の渋谷を歩くのは、本当に久しぶりだ。暮れかかった都会の空にともる街灯の光がまぶしい。結婚前に夫と入った喫茶店が、今も同じ看板を掲げて健在である。何もかもが変わりやすいこの街で、自分たちの思い出のひとつは大切に守られている、そんな気がして、ミチルにはちょっとありがたかった。
青山ホールの入口には、既に行列ができていた。今夜ここで、若手によるバレエ・フェスティバルが行われるのだ。背広姿の紳士と、髪をシニョンにまとめた若い娘、そして黒一色を身に纏った中年の痩せた女たち。明らかに、一般の演劇やコンサートの客筋とは異なっている。彼らの後ろに並びながら、その独特の雰囲気にのまれていく自分があった。緊張する。場違いではないか。しかし、帰るわけにはいかない。ミチルがここへ来た目的はただ一つ、寺田甲斐をこの目で見たかったから。

それはほんの三日前だった。新聞の一角に、高く跳び上がる華奢なダンサーの写真を見つけた時、ミチルはすぐに、それが彼だとわかった。彼女はむさぼるように記事を読んだ。そこには恒例となった青山ヤングバレエフェスティバルの日程や演目が書かれており、注目の参加者の一人に寺田甲斐の名を挙げ、彼がついに英国ロイヤルバレエ団のプリンシパル・ダンサーになったことも、併せて記していた。

(何というスピードで、彼はスターになっていくのだろう。たった四年で、世界のダンサーの仲間入りをしてしまった…)

この先、いったいどこまで大きくなるのか。ミチルは新聞を置いて大きく息をついた。その感慨は、歓喜というより、むしろそら恐ろしさに似て、彼女は甘いめまいの中で、四年前の甲斐の姿に思いを馳せた。(つづく)

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