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バレエ小説「パトロンヌ」(18)

 ロンドンのカーテン・コールはすさまじい。お気に入りのダンサーが現れれるたびに、客席からは小さくまとめたブーケが次々と投げ込まれる。そして天井桟敷の人々は、色鮮やかな花束を解きほぐし、その1本1本に愛と称賛を込め、舞台めがけて雨あられと降らしてくるのだ。そのほとんどは踏みしだかれていく。花束として届けられたものも、舞台の脇に山積みされてしまう。どの花が誰のために贈られたものなのか、一体どうやって見分けるのだろう。花とともに届けたはずの熱い想いは、お目当てのダンサーへと確実に渡っているとは思えなかった。

(私はあんなリスクは負わない。彼だけに、彼のためだけに花を届ける)

 以来、リカは甲斐が出演する日を選んで、欠かさず楽屋に花を贈った。当時まだソリストであった甲斐の手に、必ず渡る手立てと考えたからである。チケットもできうる限り手に入れた。買った以上は絶対見に行く。そのために、あれこれ理由を捻りだしてはロンドンに渡った。それまでも仕事上の拠点として頻繁に行き来していたため、さほど困難なやりくりではない。リカにとって、今ロンドンは、甲斐に会える最高の町になっていた。

(あれほどの思いをさせられた街なのに、ロンドンとはなぜか縁が切れない。……)

 リカは独り嗤いを浮かべ、席を立った。

 うつろな家路だ。甲斐のバレエを観られなかったことは、リカの神経を苛ら立たせていた。その上、ふいに思い出してしまったロンドンでの出来事が、頭から離れなくなっている。なぜあの日、コヴェント・ガーデンに行ったのか。それはありえないほど確率の低い偶然ではある。しかし心の奥底には、必然だったかもしれないという観念のようなものが、ずっとわだかまっているのだった。(つづく)


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