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バレエ小説(64)

KAI暦18年

この年、バレエKは創立5周年を記念して「ドン・キホーテ」全幕公演を行うことを発表する。ファンクラブの優先予約案内が届いた時、ミチルは3枚も買ってしまった。「ジゼル」を観た時は、2回分買うにもドキドキして1枚はB席にしたのに、今回は違う。全部S席だ。1枚18,000円、3枚で54,000円。夫婦2人で宿泊旅行にだってたっぷり楽しめる金額を、一日たった2時間かそこらの娯楽に繰り返しつぎ込むことに、ミチルはなんの躊躇もなかった。それほどに、寺田甲斐の「ドン・キホーテ」はミチルにとって特別な存在なのだ。

彼女がここまでバレエにのめり込むことになったのは18年前、甲斐がローザンヌ・バレエコンクールで「ドン・キホーテ」の主人公バジルのソロを踊るのを、テレビを通して見たからである。そこで金賞を受賞しロイヤルバレエ団に入団し、みるみる世界的なダンサーになっていった甲斐を紹介するテレビ番組では、必ずと言っていいほどこのコンクールの映像が流される。ピルエットの速さ、ジャンプの高さ、加えて空中で両脚を一直線に広げ、静止したかと思うほどの滞空時間! 今見ても、こんなにすごいパフォーマンスを16歳で踊ったということが信じられないほどだ。

甲斐にとっても、「ドン・キ」は特別な演目であった。ローザンヌで「ドン・キ」を踊って将来を期待され、ロイヤルで踊った全幕「ドン・キ」が評価されてプリンシパルに昇格。ロイヤルの「ドン・キ」に甲斐は不可欠な存在となり、来日公演でも「ドン・キ」全幕公演で主演している。

甲斐が日本で初めて「ドン・キ」バジルを全幕で踊ったのは、プリンシパルになって2年目のことだった。来日して日本バレエ協会の公演に客演。ミチルはその客席にいた。
実は、ミチルはそれまで「ドン・キホーテ」というバレエを知らないでいた。セルバンテスの名著「ドン・キホーテ」に関係あることはわかるものの、バレエの主人公は男がバジル、女はキトリと言い、ドン・キホーテではないみたいだ。だいたい、キホーテは老人だし、バレエを踊るとは思えない! ミチルはバジルとキトリがドン・キホーテとどんな関係があるのかまったくわからないままその日を迎えた。(つづく)

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