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バレエ小説「パトロンヌ」(4)

 その時の感動を、どう表現したらよいのだろう。舞台に向かって左、下手奥からゆっくり現れた彼が、大きくジャンプした。ただそれだけで、そこにいた全ての人々が至福の瞬間を享受したのである。「跳ぶ」というより、「浮遊する」。滞空時間の長さ。黒いタイツのせいもあり針金のように華奢に見える脚で、彼は重力など感じないほど軽々と、次から次へジャンプを重ねていった。いくら高く跳んでも上体が揺らがない。着地の時に音がしない。あるいはスピン。目にも止まらぬ高速で、一体何回回るんだ? 回り終わりはピタッと止まり、1ミリもぐらつかない。回りながらジャンプして、片足で着地してそのまままた回り続けるなんて! 時にはわざと速度を緩め、膝を少しずつ曲げては腰を落とし、回りながらまた元の姿勢に戻ってくる。その優雅さ。一つ一つに溜め息と、拍手が沸き起こった。そして、最後のジャンプ。空中で両足を床と平行に180度開き、そのまま空中に止まったかのようにさえ思われ、ハッと息を呑む。しかし彼は何事もなかったように着地し、同時に片ひざをついて大きく胸をそらした。その、キメのポーズの美しさ。完璧だ。片手を高々と上げた彼の、なんと雄々しく気高いことか。

鳴りやまぬ拍手をテレビの画面越しに聞きながら、ミチルはしばらく呆けていた。あれが日本人なのか? あの、まだあどけなさの残る16歳が。踊り始めると、少年は実際よりもずっと大きく、たくましく見えた。バレエをよく知らないミチルには、そのピアノ伴奏や赤の上着、黒のタイツから演目を知るよしもなかったが、彼は一人のダンサーではなく、「ドン・キホーテ」に出てくる若者バジルその人になりきっていたのである。

「ミューズが……」
ミチルは思わず呟いた。ミューズが彼に降り立った。神業である。
寺田甲斐はこの年のグランプリを獲得し、ロイヤル・バレエ学校へのスカラーシップを得た。一年の留学を経て、彼はそのまま英国ロイヤル・バレエ団に入団する。アジア人の入団は、彼が初めてであった。(つづく)




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