朗読台本「美しい恋」
昭和時代を舞台に繰り広げられる文豪と少女の恋物語。
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朗読データ
✓朗読時間 40~50分程度
✓ジャンル:恋愛
あらすじ
戦後まもなくのとある街。
父が戦死し、母を空襲で亡くした17歳の娘・すみれは、幼い弟や妹を食べさせ、そして学校へ通わせるため、昼夜を問わずに忙しく働いていた。
そんな彼女の癒しは、仕事の合間に古本屋に立ち寄り、お気に入りの作家・桐原水仙(きりはら すいせん)の小説を読むこと。
そんなある日、たまたま同じ本を取ろうとした男性に出会う。その男性こそが実は桐原水仙本人であり、桐原の懇願によりすみれは桐原邸で働くこととなる。やがて桐原とすみれは結婚する。
このお話の前半~中盤にかけては、実はすみれが書いている自叙伝であるということが後半に明かされる。
よって中盤までは基本的にはすみれの一人称視点で描かれ、ラストのみ三人称視点となる。
朗読台本「美しい恋」
【1】
あのころの私にとって、唯一の楽しみは、仕事の合間や帰りに古本屋さんへ立ち寄ることでした。
私は、全くもって冴えない女でございました。
まだ17歳ではあったものの、髪も服も気にとめたことがなく、ただただ貧乏な家のために、弟や妹にひもじい思いをさせないためにと、昼も夜も問わずに仕事に明け暮れる日々だったのです。
けれど、そんな私を異国や夢のような国へ連れて行ってくれたり、王子様と恋をさせてくれたり、ときに人を殺した犯人を探したりさせてくれるのが、本の世界でございます。
古本屋の店主さんはいつものように、本を膝の上に置き、眼鏡を垂らしたまま、昼寝をしております。
私は好きな作家の新作を見つけ、意気揚々とその1冊に手を伸ばします。しかし、そのとき、私の指に優しい熱が重なりました。
「これは失礼」
「いえ、こちらこそ」
普段、私以外の人間を見ることすら稀な町外れの古本屋でございます。それが今日に限って人が居て、しかも若い男性がいたのです。そして、数多(あまた)ある本の中から同じ本を同じ瞬間に取ろうとするなどという、こんな奇跡が起きていいものでございましょうか。
しかし、だからこそ“運命”と呼ぶに相応しい出会いだったとも言えます。
「どうぞ。先に本に触れたのはあなたです」
その方は言いました。ほとんど日に当たったことがないような白い肌に、黒のハンチングがよく似合う美しい方です。
「いえ、お構いなく。私はこの本を買うお金を持っていないのです。お金があったとしても、弟や妹にお菓子を買ってあげたくなるから、本は買えないんです。ただ、ご主人のお昼寝に甘えて、ひっそりここで本の世界に行くのが楽しいだけなのです」
「はははは。あなたは面白い方だ」
「えっ?」
「おい主人、これを貰うぞ。金は置いておく」
その方は先程指と指が触れ合った運命の本を手に取り、未だ昼寝を続ける店主さんの前にお金を置き、そうして買い求めた本を私に差し出したのでございます。
「どうぞ」
「えっ?」
「差し上げます」
「いえ、そんな…初めてお会いした方に、このような親切をしていただくわけには……」
「なら、交換条件にしましょう。あなたはこの本を、今日1日で読めますか?」
私は読むのは早い方でしたし、短編でございましたので「はい」と短く答えました。するとその方は、笑顔でこう言ったのです。
「ならば明日、同じ時間にここで会いましょう。そのときにその本の感想を聞かせてください」
「感想……?」
「はい。あなたが思うままに、その本を読んだあとの気持ちを聞かせてほしい。良いところも悪いところも、もし良いところなどなければ悪いところだけでもいい。口汚く罵ってくれたって構わない。いかがですか? 感想をきかせてもらえませんか?」
「分かりました。私で良ければ。ただ、あの、せめて、あなたのお名前だけでも教えてくださいませんか?」
「それは、明日、お教えします。あとこれね、先ほど羊羹を貰ったんですが、これも持っていってくれませんか? 妹さんや弟さんと食べてください」
「いえ、本を買っていただいた上に、こんな高級なものをいただくわけにはいきません」
「いかんせん、私は甘いもの、とくに羊羹が苦手でしてね。あなたが貰ってくれなければ、こいつはただのゴミになってしまうんですよ。どうか、この羊羹のためにも、貰ってやってくれませんか?」
「んふふふ……」
私は思わず吹き出してしまいました。「羊羹のため」だなんて、なんて面白い表現をされる方なのでしょう。これではもう、頂くより他にないのです。全く、お上手な方です。
「分かりました。それでは【羊羹の為に】ありがたく、いただきます」
「【助かります】と羊羹が言っております。それでは、明日またここで」
「承知しました」
その日の私は、まるで心に小さな太陽が宿ったかのように、明るく暖かい気持ちで家路に着きました。
【2】
「おい、主人、あの娘は行ったぞ」
ハンチングの男は、古本屋の店主に声をかける。
「そのようだね」
「いいのか? ああいう立ち見客を許しておいて」
「前にも言っただろう」
店主が曇った眼鏡を磨きながら言う。
「あの子だけは特別なんだ」
主人は、曇りの晴れた眼鏡で遠い空を眺めるように続ける。
「あの子の父親は戦地で俺を庇って死んだんだよ。あのとき、俺が撃たれていれば、あの子はあんなに苦労することはなかった。本当ならここの本は全部あの子にあげたって足りないくらいの気持ちなんだよ」
「なら、そう言って本屋ごとあの子に譲ったらどうだい?」
「あの子の家にこんなたくさんの本は置けないし、店ごと譲るにしても、まだ歳が若すぎる。それに女だ。こんな儲けの出ない店を持つより、立派な男と結婚して幸せになるのが一番だ」
「なるほどね。だから、あの子が居るときは寝たふりして好きなだけ本を読ませてるってわけか」
「今の俺に出来るのはそのくらいだ。あ、伝吉(でんきち)! お前、あの娘さんに手出すなよ。どんな女と遊ぼうと自由だが、あの子だけはダメだ。あの子に何かしたら、おれはあいつに変わってお前を殺す」
「ふんっ、伝吉なんて呼ばれたの久しぶりすぎて誰のことだか分からなかったが、俺は確かにそんな名前だったな。安心しろよ。あんな冴えない娘に興味はないよ。そんじゃ、またな」
男は足取り軽く、街の中へ紛れていった。
【3】
翌日。
昨日と同じ時間に古本屋さんに行くと、ハンチング姿の美しい男性が既にそこにおりました。
「待たせてしまいましたか?」
と聞くと「今来たばかりです」とおっしゃり、にこりと微笑みました。そのときに、心臓の奥にチラチラと何かが刺さるような感覚がございました。
「それで、あの本はいかがでしたか?」
そう聞かれ、私は昨日買っていただいた本について、思うがままに感想を申し上げたのでございます。
「桐原水仙(きりはら すいせん) 先生の作品は、情景描写が美しいのが最大の特徴で、今回も最後の桜吹雪の場面は最高でした。でも…」
「でも…?」
「先生はお疲れなのでしょう」
「え?」
「他の場面は以前別の作品で見たことがあるようなものばかりで、心が動きませんでした。物語としての完成度は高いですけれど……いつもは白米のご飯なのに、今回はお粥のような感じといえばいいのでしょうか? 美味しいけれど、薄かったというのが私の本音です」
私はそう述べたあとで「私は感想を言いました。次はあなたの番です」と言い、ハンチングの下の目を見ました。
「お名前を教えてください」と言うと、その方はハンチングを取り、軽く会釈をされました。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。私は谷村伝吉(たにむら でんきち)といいます」
「伝吉さん?」
「あぁ、やはり本当のことを言いましょう」
「偽名だったのですか?」
「いえ、谷村伝吉は間違いなく私の本名です。ただ、今の世の中であれば、こう名乗るのが分かりやすいでしょう。私の名は、桐原水仙です」
心臓がほんの一瞬、止まったように思いました。
あの、桐原水仙先生が目の前にいるという事実。そしてご本人に向かって、とんでもない感想を述べてしまったことへの後悔……色々な感情が混ざり合い、混ざりあった絵の具を一気に飲み干してしまったかのような混乱が押し寄せてきます。
それでいて、その方は私に深々と頭を下げ、そのあとにこう言ったのです。「嬉しいよ」と。
「あ、あの、私、な、なんて失礼なことを、あの、ま、まさかご本人が…」
脳の中には見たこともない速さで何千、何万もの絵の具が、大きな筆で混ぜられていて、どの色を出したいのか全く分かりません。
そこへ、普段は寝てばかりの店主さんが現れました。
「すみれちゃん、悪いね。こいつは俺の古い知り合いなんだが、ここの客の中に『お前の作品が好きな女の子がいるよ』と酒の席でうっかり話してしまってね。そうしたらもう『その子に会ってみたい。純粋な読者に会って感想を聴きたい』って言い出して止まらないんだよ。それで、すみれちゃんの来る時間を教えてしまったんだ。すまない」
普段寝ているはずの店主さんが、私のやってくる時間や好きな作家を知っていたことに驚きましたが、まさか店主さんと桐原水仙先生がお知り合いだったとは……。全く予想していなかったので、頭の中の絵の具はさらにぐちゃぐちゃに混ざり合うばかりでございます。
あのときは、正直、自分の身に起きたことが分からずに、気がつけば私は桐原先生の車に乗り、先生の邸宅にお邪魔していたのです。
【4】
初めて伺う桐原邸は、まるで本の中に出てくるお城のような大きさで、その美しさと迫力にただただ息を飲むばかりでございました。
「そこに掛けてくれ」
「あ、はい」
応接間まで案内され、女給さんが我が家では絶対に見ることがない高級そうな紅茶とケーキを運んでくれました。
紅茶のカップには淡い色の蝶が舞っていて『綺麗だなぁ』などと、突然に呑気なことを考えていたのでございます。
「すみれさんと言ったかな?」
水仙先生は優雅な手つきで紅茶を召し上がります。
「あっ、あの自己紹介が遅くなりました。立花(たちばな)すみれと言います。あの大山町2丁目の高橋薬局の前の…ええっと……」
「落ち着いてくれたまえ」
「は、はい」
「君の言う通り、最近私は疲れている」
「え?」
「君の感想文だよ」
「も、申し訳ありません。大変失礼なことを……」
「構わないさ。むしろ、それを望んで君に感想を求めたんだよ。全てが当たっていて、心の内を見透かされたかと思い、とても嬉しかった」
先生はそう言って、真っ赤な苺が乗ったケーキを美味しそうに召し上がります。
後から知ったことですが、先生は大変な甘党だったのです。中でも羊羹は大好きというのですから、全く、ずるいお方でございます。
先生は更に続けました。
「すみれさん、君、明日から私の家で働かないかい?」
「えっ?」
「安心してくれ。女給をやってもらうわけじゃない。私の執筆を手伝ってほしいだけだ。いわゆる書生といったところだな。字の間違えを正したり、必要な情報を集めたり、ときに、私に作品のアイディアを授けたりしてほしい」
「そ、そんなことできません! 私には、そんな知識なんてありません」
「だが、あの本を読めるということは、最低限の読み書きはできるだろう? 他のことは、追々私が教えるから心配する必要はない」
「ですが……」
「この家には私の本が全てある」
「えっ?」
いきなり何を言われたのかと、目が点になりました。
「あの古本屋にも出てない作品が山のようにある。ここで働けば、好きなだけ読める。それに、様々な付き合いってものがあってね。私の書庫には図書館より多くの本があるんだ。これらが全て読み放題だぞ。それに、給料も今の仕事の10倍は出そう。君の部屋と君のきょうだいの部屋も用意するから、家賃もかからない上に食事付き。これほどいい条件の職場があるかい?」
先生の作品が読み放題というのは、魅力的です。それに家族全員の部屋や食事が用意され、頂けるお金は今の10倍。こんなに素晴らしい提案はありません。故に、何か裏があるのではないか? などと考えてしまい、答えに困ります。
「私は疲れているんだ」
先生はまたそう言います。
「私には救いが必要なんだよ。それも穢(けが)れなき純粋な女神が。それが君なんだ。なんとか引き受けてくれないか?」
すると隣から男の人の声がします。
「こいつぁ酒にも女にもだらしねぇが、仕事だけはちゃんとやる男だ」
古本屋の店主さんです。一緒に来て、隣に座っていたことをすっかり忘れておりました。それほど、私は動揺していたのです。
店主さんの前には、緑茶と和菓子が置かれています。そのお茶を飲み、続けました。
「こいつの身の上は俺が証明してやる。ただし、こいつがちょっとでもすみれちゃん達を傷付けるようなことをしたら、俺はこいつを殺す。…ってことで、俺を信じて、こいつの仕事、引き受けてやってくれないかね?」
「殺す」という言葉の響きがあまりにも恐ろしく感じられましたが、この人がそこまで言うのなら、信じてもいいか……と思えたのです。
結論を先に言えば、このあと先生は実際に殺されかけるのですが、それは決して私たちを傷付けたからではなく、勘違いから起きた事件でございました。
「分かりました。それでは、こちらで働かせていただきます」
私の返事とともに、ぐちゃぐちゃの絵の具が混ざり合う世界は更に激しく色を重ねだし、何が何だか分からないうちに全てが進んでいきました。
【5】
私もきょうだいたちも、大邸宅の中にある広すぎる部屋を1部屋ずつ与えられました。さらに家具や洋服なども揃えて下さり、毎日食べたことのないようなご馳走が口に入ります。
それなのに、実のところ先生には既に書生さんのような方や秘書の方もいて、私の仕事は先生がお散歩をするときに、同行を求められる程度でございました。
「この川は澄んでいていいな。魚が心地よさそうに泳いでいる」
「そうですね」
先生は、近所の川辺をお散歩するのがお好きでした。
「どうだ? 仕事は慣れたか?」
「慣れたか?……と言われましても……私の役目はこのお散歩の付き添い程度で他は何も……」
「だから、それに慣れたかと聞いているのだ」
「えっ?」
「私と一緒にいることに、慣れてくれたかい?」
「え、えぇ。最初よりはだいぶ」
最初の散歩に至っては、緊張のあまり、記憶がありません。3ヶ月の時が流れ、ようやく会話が成立するようになったのでございます。
「ならいいんだ。楓(かえで)ちゃんや太一(たいち)くんも、最近はよく懐いてくれてね」
楓と太一というのは、まだ幼い私の妹と弟のことです。
戦地で父が亡くなり、空襲で母が亡くなり、親の愛情というものを、ほとんど知らない2人でございます。それでも、せめて学校だけは行かせてやりたいと思い、私は様々な仕事をこなして参りましたが、先生のところに住むようになってから、そんなことはせずに済むようになり、きょうだいで過ごす時間が持てるようになりました。
先生のおかげで、私たちは「家族」という形になり、楽しい時間を過ごせるようになったのでございます。どうお礼を申し上げればいいのか分からないほど、先生に対する感謝の気持ちは溢れております。ですが、言いたいこともございました。
「申し訳ありません。両親が亡くなっていて、私はお金を稼ぐだけで手一杯で、あの子たちに教育というものができていないのです。ですから、先生に高級なお菓子や玩具を平気でねだってしまいます」
「いいじゃないか」
「そうやって、先生が何もかも買い与えてしまうから、あの子たちはどんどんワガママになってしまうんです。もう何も買わないでください」
「無理だ」
「なぜですか?」
「既に色々と買う約束をしていてね。このあと、新しくできた百貨店に行く約束もしているんだ」
「全くもう、先生は……甘すぎます!」
「“甘い”で思い出した! パーラーに寄ってパフェも食べよう。もちろん、君もくるだろう?」
「……はい、行きます」
私も先生に負けず劣らずの甘党でしたので、パフェの前に逆らう術がありません。
百貨店では楓と太一は執事の方と玩具やお菓子を見て周り、先生と私は最上階のパーラーでメロンのパフェをいただきました。
「最新作は読んでくれたかね?」
甘いメロンを食べながら、先生は尋ねます。
「はい。とても素晴らしい……」
「お世辞はいらない。あのときのように、素直な感想を聞かせてほしい」
あのとき。先生がまだ先生であると知らなったあの日。あの日の私はあまりにも失礼だったと思いますが、それを求められているのならお答えしようじゃありませんか。それが仕事ですから。
「先生は恋をしたことはありますか?」
「いきなり何の質問だ?」
「いいですから、お答えください」
「……ない。あぁ、勘違いするなよ。女を抱いたことなら数えきれないほどある。無論、素人の女で……」
「そこまでは伺ってません」
「聞かれたことに答えただけじゃないか」
先生は口に生クリームを付けながら、美味しそうにパフェを食べます。
まるで子どもみたいです。
「先生の作品には“恋愛感情"というのが、全く感じられないんです。それが、先生の物語の薄さの正体なのではないかと思います」
「恋愛ねぇ。どうすればできる?」
「それは……分かりません。いつかそういう方と出会うのを待つしか……」
「そんなのんびりしたことはしていられない。そうだ、親戚から言われて無視していたお見合いというものをやってみよう」
「それもよろしいかと」
その日以降、先生は3ヶ月で20名の女性とお見合いをしましたが、結局誰とも上手くはいきませんでした。原因は他ならぬ先生です。
先生は見た目に爽やかで美しく、有名人ということもあり、女性は皆、先生に恋をします。けれども先生は女性と出かけるのを嫌い、手紙を書くのも面倒だと言い、全くもって女性たちの期待に応えないのです。
中には「私のことが嫌いなのですか?」と屋敷に乗り込んできた女性もおりましたが、先生は表情ひとつ変えず「好きでも嫌いでもない。興味がない」という残酷な言葉を放っただけでございました。
しかし、この頃から先生の作風に変化が生まれていたのです。お庭のベンチで読んでいた最新作には、苦しくも切ない、それでいてパフェのように甘い恋の気持ちが、瑞々しく描かれていたのです。例え全て不発であったとしても、20名の女性と会ったのは無駄でなかったのかもしれません。
「どうだい? 新作は?」
「せ、先生。いつの間に」
本を読むベンチの隣に、先生はかなり長い時間居たようですが、私は読書に夢中で気が付かなかったのでございます。
「先生、恋をされましたか?」
「また、その手の質問か」
「いいですから。正直にお答えください」
「あぁ。君に言われて気づいたよ」
「20名のうちのどなたですか?」
全て駄目になったと見せかけて、誰かとは繋がっているのだろうと私は思ったのです。
「どれでもない」
先生はポツリと言い、そのあとに信じられない発言をしたのです。
「私の恋の相手は…君だ」
「えっ?!」
あまりの衝撃に、持っていた本を落としそうになりました。この人は、なんとも大胆なのです。
「冷静に考えてみたまえ。君と出会ったころ、私は確かに文筆に疲れ果てていた。だが、ほぼ面識のない娘とそのきょうだいを家に入れてしまうなどというのは正気の沙汰じゃない。私を突き動かしたのは、君に恋をしていたからだよ」
「ま、なんてことを…」
先生が、こんな田舎臭い冴えない女に恋……? 全くもって理解できません。
「君は私が嫌いか?」
「いいえ」
「それなら好きか?」
「はい」
元々、桐原水仙の愛読者であり、その先生と共に時間を過ごす中で、私は確実に先生に恋をしておりました。いえ、ただしくは、まだ先生が先生と知る前。同じ本に指が重なった瞬間に、私はこの人に心を奪われていたのでございます。あの出会いは演出されたものではありましたが、それでも良かったのです。
恋の始まりに理由などいらないと私は思います。
けれど、先生の次の発言は、最も衝撃的でございました。
「ならば、私と結婚をしてほしい」
「け、け、けっこん?!」
「君への気持ちを自覚してからと言うもの、君が使用人の若い男と話すだけで、どうしようもなくイライラして仕事が手につかない。ならばいっそ、妻になってほしいと思うようになった。私だけを愛してほしいんだ」
「……じゃあ先生も、これからは私だけを愛してくださいますか?」
「当たり前だ」
「他の女は抱かないと誓えますか?」
「もちろん。君以上に惹かれる女性などこの世界にいない」
全く、うまいことを言ってのけたものです。けれど、このときは本気だったのでございましょう。
先生の唇が私の唇に重なります。私にとっては、はじめてのことで、少し身体が震えましたが、嫌だという気は全くせず、むしろずっとこうしていたいと願うほどでございました。
しかし、事件というのは、思わぬ方向からやってくるものです。
夕日のさす美しい庭園に1人の男性が怒鳴り込んできたのです。
「おい! 伝吉! 貴様、すみれちゃんに何をしているんだ」
いつものくたびれた格好ではなく、きっちりとスーツを着ていたために一瞬気づきませんでしたが、杖を付くその紳士は、あの古本屋の店主さんでした。
「い、いや、親父! 違うんだ。ちゃんと説明するから聞いてほしい」
「俺はお前に言ったよな? すみれちゃんを傷付けたら殺す、と。あれは嘘じゃない」
店主さんはそう言って、杖を振り上げます。私は慌てて声を出します。
「あ、あの、私、先生と結婚します!」
その言葉を聞いたとき、店主さんの動きがネジの切れたブリキの玩具みたいに止まったのです。
「すみれちゃん、こいつに脅されたのか?」
店主さんが私に問う目は、真剣そのものでございます。
「いえ、決してロマンチックとは言い難いですが、たった今、この場所でプロポーズというものをしていただき、快諾いたしました。……ところで、店主さんは……先生の……」
「父親だよ」
先生はつまらなそうに言いました。
「お前とは親子の縁は切ったはずだ」
「いつまで、くだらない喧嘩を根に持つつもりだ?」
ここからの会話はとても長かったので、簡単にまとめておきます。要は成績がよく将来有望であった先生が、作家になることを店主さんは強く反対されたのです。店主さんは長男である先生に、自分の会社の跡を継いでほしかったのです。
しかし先生は会社経営というものにまるで興味はなく、喧嘩の末に家を出てしまいます。そして著名な文豪の書生となり、やがてご自身も作家として活躍されるようになります。
戦後、互いの生存を確認するために2人は再会し、以降時々酒を酌み交わすようになるものの、完全な仲直りはまだ出来ていなかったのです。
そもそも、店主さんの古本屋は暇つぶしのようなもので、実際は大きな会社の会長だというのですから、空いた口が塞がりません。
この人たちは、どこまで私を騙せば気が済むのでしょうか?
「すみれちゃん、本当にこんなドラ息子と結婚するつもりか? 金が目的なら、私がいくらでも面倒を見る。今日はたまたま会合の帰りで寄ってみたが、正解だった。危うく、1人の女性を不幸にするところだった」
「親父だって、散々母さんを泣かせたじゃないか」
「だから言ってるんだ。お前は俺の息子だ。間違いなく、すみれちゃんを泣かせる」
この言葉は見事に当たりますが、それはまだまだ先のお話でございます。
「私は先生が好きです。だから結婚したいです。ダメですか?」
自分のことながら、よくもあんな大胆なことを言ってのけたものだと思います。しかし、それほどに私の心には先生がいたのです。
「すみれちゃん、冷静になれ。結婚したいなら、俺がいくらでも良い相手を紹介してやる。だから、こいつだけは……」
「先生がいいんです! 先生のことが好きで好きでたまらないんです。お願いします。結婚させてください」
そのとき、目から雫が流れるのを感じました。なんのために流れてきたものなのかは、今もってよく分かりませんが、それが決め手になったのでございましょう。
「すみれちゃん、泣かないでくれ。分かった。そこまで言うなら、そいつと結婚するといい。ただ、そいつにちょっとでも泣かされたら、すぐに俺に連絡をくれ。これ、名刺だから。すみれちゃんからの電話はすぐに繋ぐように言っておく」
店主さんこと、谷村伝助(たにむら でんすけ)さんは私の手を強く握りながら、名刺をくださいました。先生はその様子を見て、ただただ呆れたような顔をしておりましたが、内心では何を思っていたのでございましょうか?
【6】
私たちの結婚式は有名な神社で大々的に行われました。出版社の方や新聞社の方も多く、カメラのフラッシュも輝きました。
あまり人前に出た経験がない私は、その光景に震えるばかりでございます。
「すみれ、どうした?」
先生はいつもと顔色一つ変えません。
「こ、こんなにたくさんの方がくるなんて……し、しかも写真まで……」
「大丈夫。君は自分が思うよりずっと美しい」
「い、今そんなことを言われても、緊張が増すだけです」
「私が隣にいるじゃないか」
「え?」
「今後は永遠に私が隣にいる。君を守り抜くから、安心しなさい」
「あ、ありがとうございます」
このあとの記憶はほぼ無く、気がつけば私は先生の妻になっておりました。それからすぐに長男を授かり、主人は信じられないほどの赤ちゃん用品を買い揃え、子ども用の部屋を飾りました。そこに生まれたのが、隆一でございます。隆一は……。
【7】
……そこですみれは筆を止めた。
「何をしているんだ?」
水仙の質問に応える。
「あなたと隆一が、世界で初めて、親子で同時に大きな文学賞を受賞されたでしょう?」
「全く気に入らんよ。私の作品より、あいつの下らん本の方が売れている」
「息子の活躍は、素直に喜んだらどうかしら?」
すみれは、ため息をつく。結婚から40年以上の時が流れ、2人は3人の男の子に恵まれた。そして、3人ともクリエイティブな道を進み、長男の隆一は父と肩を並べるほどの作家になった。
「喜んではいる。だが……」
「まぁ、なんでもいいわ。とにかくね、2人が賞を取ったから、私にも『桐原先生と奥様のお話を、本として書いていただけませんか?』って依頼がきたんですよ」
「それを引き受けたのか?」
「えぇ。だって、作家になるのは夢でしたから」
「そんな話ははじめて聴いたな」
「そうでしょうね。はじめて言いましたから」
と言ってすみれは笑う。実際のところ、すみれはそこまで作家になりたいという願望があったわけではない。
しかし、水仙の影響を受けてか、弟の太一や妹の楓までも文学の道を進んでおり、それぞれの分野で活躍している。そんな様子を見ていると、不思議と自らの内に眠る創作意欲というものが湧き上がってくる。
「まぁ、君が書きたいなら書けばいいが……私が京都の芸者と……その……そういう関係になり、君に大変な迷惑をかけたという話は書かないでもらえないか?」
「何を言っているんですか? あの出来事を書かずして、私たち夫婦は語れませんよ」
「……また親父に叱られそうだな」
「まだお義父さまが怖いなんて、可愛いところもおありですのね」
すみれの義父・伝助はかなりの高齢だが、今なお元気で、仕事こそしていないものの、最近はカメラを買い、写真を撮ることに熱中している。
「さてさて、そろそろ続きを書きますかね」
「あんまり無理はするなよ。あと最近は寒くなってきたから、これを使いなさい」
「あら、綺麗なひざ掛けですね」
「屋敷の蔵にあったのを、たまたま見つけてな」
「そうですか。でもこれ、デパートのタグが付いていますよ?」
「と、とにかく、身体を冷やさないように!」
そう言って、水仙は姿を消す。
「全く、いくつになっても不器用なんですから。ま、これに免じて、芸者さんとの出来事は書かないであげましょうかね」
すみれはひざ掛けをかけ、再び原稿用紙と向き合う。
水仙との結婚生活は、決して平坦なものではなかった。しかし、何が起きようとも、すみれが水仙を愛する気持ちが変わることはなく、また水仙のほうも何があっても、最後はすみれの元へと戻ってきた。
「そうだ、本の題名は『美しい恋』なんてどうかしら? 美しい物語を描く美しい文豪に恋をした、美しい娘の話。まぁ美しい娘は言い過ぎだけれど……この恋は全てが美しいの。そんな恋ができた私は、幸せ者ってことを伝えたいのよ」
すみれは独り言を言いながら、再びペンを走らせはじめた。
【終】
がみのろま自己紹介
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