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夕暮れ

どの季節にも必ずやってくる時間

人の意識が薄まる時間

この世界が少しだけ曖昧になるその一瞬は、この世の物全てが洗濯されている衣類みたいに、僕の頭の中に渦巻いていて、これっぽっちの小さなものに感じる

世界は広いはずで、僕の知らない物が溢れかえっているはずなのに、全てを知ったみたいな自分でも理解の追いつかない思考になる。

夕方は一日の中で人の思考が最も落ちる時らしい

お金持ちも、有名人も、ホームレスも、子どもも大人も、お年寄りも、全てがある意味平等な世界が始まる

人類が唯一、横並び一線に近い世界が生まれる

時差とか細かいことは抜きにして、図らずも起こる不思議な時間に何となく高揚感をおぼえる。

そんな世界に僕一人

例えば、そんな思考力が均等な世界があったとして、そこに存在する個がどう在るのか気になる。
在り方の話。

個が個として確立されているのに、何となく皆同じに感じてしまう。
これもまた人類補完計画の一端…?

個々という扱いではなく、全てが均一化され、同一化することで、思考の共有と肉体を捨てた人類が得る永遠の命……

これは流石に飛躍してると思うけど、人と人との境界線が曖昧になっていく
黄昏時なんてものは、昔の人も上手いこと言ったものだと思う

誰そ彼

同じ黄昏時を指していても、僕はなんとなく思い返した人は、今は誰で、彼はどうしているのかと考えている様なそんな意味があるように感じてしまう

過去の人は、過去の時間の中で止まっていて、今を生きる同じ人はまた別の人のようにも思えてしまう。
実際に会えば変わらないところもあるんだけど、その時の彼とはまた違うから、僕の心にいる彼はあの時のまま。

夕暮れ時には昔のことを思い出すことが多い。

部活帰り河川敷で遊んだことも
友達と喧嘩したことも
好きな子と寄り道したことも

全て過去の記憶
不思議なことにどの記憶も時間がリンクする

同じ時間帯に僕がしていたこと、彼らと過ごした断片が蘇る

思考力は低下してるからなのか、なんの雑音もなく純粋な記憶として、そして、夕暮れのフィルターが掛かって僕の心にずっと残る。

今でも思い出す。
小学生の頃、僕のことを親友だと言ってくれた友達が居た。
彼は家の近所に住んでいて、夏になれば毎日のように僕の家に遊びに来たり、逆に僕が赴いたり。
ほとんどの時間を彼とあと数人の友達と過した。

そんな彼が僕に対して親友だと言ってる話を他の人を通じて知った。

知った直後、「え?親友じゃないよ?他にいるし」
よくもまあこんなことが言えたものだと思った。
たまたま通りがかった彼に「親友じゃないんだって!言ってるよ!」

僕はこの真ん中に立って話を中継していた彼が戦犯だと思ってる。

それから彼が僕の家に来ることは無かった。

もう17年も前の話
突然のカミングアウトに驚く彼の顔は忘れられない。

良くも悪くも多くのことを思い出す。

きっとあの時の彼は今はもう居なくて、今は今の彼が居るのだろう
あの時で止まったままの彼は何となく僕の戒めとして心に居るのだろう。

境界の彼方

貴方は何を見るだろう

曖昧さに溶けて僕は僕でなくなる
思考が停止して鮮明な記憶の多くが頭を巡る

何故どうしてこれが心地よいのか今でも皆目検討がつかない。


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