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死んでたまるかと思うし、死なせてたまるかと思う。本当に最低な世の中だ。最低な世の中を愛しているが、そんな世の中を愛せない人間とも一緒に闘いたい。共に愛せる場所を作りたい。私は。

 落ち着かない夜、だからこそ、考えてみる。嫌に冷静な頭と、ある種練習のように百難と真正面から向き合うことを繰り返してきたことで、大抵のことには動じずに半分以上面白がっている自分もいる。

 志賀理江子さんのTCAA受賞作品に衝撃と感動を覚えてから、震災後に自死した人間のエピソードと、ビルケナウの作品と4枚の写真の結びつきを考えている。志賀理江子さんの作中で出てきた文章は下にまとめた。


 時代と空間を超越できるアートに触れた直後、日常ではない非日常を過ごせるのは、ある種、素晴らしいことなのだと思う自分もいる。悲しさとか、辛さとか、そうした感情にいないと見えない視点があるからこそ、新しい視点を獲得している限られた時間に喜びも覚える。


 死や強いアートに直面すると、芸術やメディアアートが提示する象徴的なイメージと、現実世界で起こる悲劇や葛藤との間に潜む哲学的な関係性を見つめることが求められる。
 私たちは、「海と陸の境に建てられた長い道」を歩いているとする。オホーツク海から吹く冷たい「ヤマセ」の風にさらされ、分厚い雲が太陽の光を遮る中で、私なら、あなたなら何を考えるのだろうか。

 芸術やメディアアートの表現は、東北地方を襲った震災や、現代の復興計画に潜む問題、そして過去と現在、未来における人々の選択と責任について考える鍵となるかもしれない。震災後の復興は、時に本来の目的からずれ、大資本による利益追求へと向かってしまった。その結果、多くの人々は翻弄され、疲弊し、自ら命を絶つことさえあった。

 人々の心は、過酷な現実と向き合い続ける中で、アートが提供するイメージと対話を通じて、救いや解放を求めることがある。しかし、これらの作品が示す真実は、現代社会にとって都合の悪いものであることもある。それでもなお、アートは、私たちに自身の内面や現実世界における選択と責任について考える機会を提供してくれる。

 自然や波の普遍性を見ることで、私たちは過去と未来がどのように繋がっているかを知ることができる。そして、その繰り返しの中で、私たち自身がどのように命を燃やしているかを理解することができる。アートは、私たちに見えなかったものを見えるようにし、心の奥底に眠る意識を呼び覚ましてくれる。それこそが、私たちが直面する現実と向き合い、その中で自分たちの在り方や選択について考える機会を与えてくれる力である。

 私たちが歩んでいる長い道に沿って、新実存主義の視点から考えられたアートは、私たちの現実に対する理解を深め、内省を促す。その中で、私たちは過去の出来事や復興の道のり、そして未来への歩みを照らす光を見出すことができる。ビルケナウのような過去の苦難と、現代の東北地方の複雑な問題が相互に照らし合わせられることで、私たちの存在の意義が新たに問われる。

 この長い道を歩む過程で、私たちが直面する過去の影や現代の課題を解決するために、志賀理江子さんのイメージ作品は貴重な視点を提供してくれる。人間社会の成り立ち、過去から現在への連続性、未来への期待や不安が織りなす複雑な関係性を理解することで、私たちは内面の葛藤や悩みに立ち向かい、より強い意識を持つことができる。

 風景に見える波を眺めながら、私たちは過去、現在、未来がどのようにつながっているかを知り、選択の意義や責任について考える。そして、それぞれの個人が抱える過去の痛みや現在の苦しみが、社会全体への理解や共感を生み出すことができる。アートとそれを作り体感する過程を通じて、私たちは見えなかったものが見えるようになり、その知見を現実世界での行動へと繋げることができる。

 「イメージ、それでもなお」と「ビルケナウ」を思い出しながら、私たちが持つ過去と未来に対する想像力によって、現実と向き合い、問題解決のヒントを見つけられる気がする。過去のビルケナウのような苦難と現代の東北地方の復興という課題を、アートの力を借りて共有することで、私たちは互いの経験や苦悩を理解し、人間としての共感や連帯を築くことができるからだ。繰り返し、思う。

 新実存主義の視点から、私たちは自らの存在や社会のあり方について考察し、問題に対する独自の解答や行動を生み出す力を養っている時代にいると感じる。

 過去の影や現在の葛藤を乗り越え、未来への希望や願いを見出すことがアートが私たちに与える力である。人間の心や精神の持つ無限の可能性を発見し、それを現実世界で実践することで、私たちは新たな価値観や理解を築き上げ、未来へ向かって進む力を得ることができるのだ。

 このようにして、優れたアートは私たちに新実存主義の視点を提供し、過去のビルケナウや現代の東北地方の問題を深く理解することができる。そして、その理解をもとに、私たちは困難な現実や内面の闇と向き合い、互いを支え合いながら、持続的な成長や発展への道を切り開いていくことができるのである。


 果たして、ぼーっとした頭でつらつらと書いた文章なので論理性は欠いていると思うが、ゲルハルトリヒター級に衝撃を受けた志賀理江子という作家へのリスペクトの気持ちと、今の私だからこそ冷静かつ独自性を持って考えられるだろう、というバイオロジカルな視点で、書き残す。

 いつかこれを見て、また少し考えて、何か行動し、何か残していく、百難以上も乗り越え続ける、未来の自分を信じてみる。

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