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哲学の発酵 -人間は苦痛の中で考える-

 奴隷の椅子やゲットーを思い出しながら、理解され難いかつ身近な人にもずっと誤解されていた思考の記録を。社会彫刻と生への執着の源泉について。

 つい先日も書いた内容でありつつ、もう少し深掘ります。

 常に学び続けパフォーマンスを高める基盤をつくるために、極めて信頼ができて優秀なコーチ、カウンセラーの方に付いていただいているのですが、2-30回対話を重ねてもお互いに新しい気付きがあることに対話の深みを感じます。

 私の中でよく誤解され、且つ理解され難い思考についてプロフェッショナルなコーチにも真に伝わるまでに20回以上のセッションが必要だったことが興味深かったので、言語化しておきます。

 人生には幼少期の理不尽な体験、苦労、死別、病、肉体的な苦痛、精神的な苦痛、様々な失意に至る経験があります。私の敬愛するドストエフスキーは以下のような言葉を遺しています。

苦痛こそ生活なのだ。
苦痛がなければいったい人生にどんな快楽があろう。

カラマーゾフの兄弟より

 私自身も様々な苦痛を経て、希死念慮を超えた死へ隣接する体験、そうしたものも10代に2度経験しながらも、それ以上の精神的な苦痛を今後も経験したいと考えています。唯これはドストエフスキーが言うところの、苦痛の交換価値的に快楽を得るための手段ではなく(ドストエフスキーの言葉はもう少し深いのですが敢えて簡略化します)、他者の気持ちを理解できない大前提で出来る限り理解し、文字通り寄り添うことができるようになり得る人間性を獲得していきたいと考えているからです。これは「なり得る」という可能性への賭けでもあります。

 小学生の頃からニーチェの「超人」や「永劫回帰」、また三国志の曹操の「天よ我に百難を与えよ」の精神が染み付いているのもあると思います。唯、私自身も含めて、その精神的或いは肉体的辛さを実際に体験していない人間が、その課題を本質的に解決したり、寄り添うことができないと強く思うのです。極端に飛躍させると、ホロコーストを経験していない私が、V・E・フランクルの著書を幾ら読もうが、研究しようが、当時のユダヤ人の気持ちを理解し、体験し、心に落とし込むことはできません。

 ホロコーストのような事態、戦争は決して起きてはいけませんが、それに相当する精神的な苦痛が私に「のみ」訪れるのであれば、それも経験したいと、本気で、考えています。実際に苦しんできた経験もあり、苦しんでいる友人もいる中でこうしたことを書き残しておくのは非常に憚れるし、文章にすると軽率さが残るようで言い表せない気持ち悪い感覚もありますが、ずっと伴走と寄り添いをし続けてくれたコーチやカウンセラーの方との対話の中でもその真意を誤解されつつ、NVCや精神医学を互いに用いながら深い対話をし続けた方からは、十分にご理解いただき応援していただけた事象となり、自分の中では腑に落ちてきたので、記録しておきます。

 唯、強い精神的負担を負う度に人様に迷惑をかけては仕方がないので(死んでしまうことも含めて)、フロイト的対応も第三世代的対応もニーチェ的なマッチョな思想も自由に使いこなしながら、また這い上がる精神性と肉体の獲得をしていきたいと考えています。現場が大切だという感覚で、その現場を経験すること、そして現場で感じたあらゆる感情を内包すること。そうしたことは「心の安定」や「幸せ」のようなベクトルで物事を考える医者やカウンセラー、そして苦痛を避けたがる人々からは避けられがちで、好んで苦痛を味わおうということは非常に理解され難いことですが、生を受けた以上、かつ孤独を愛せるが故に、挑戦し続けたいと思うのです。(辛いときは私も本当に辛いし、自分のことだけを考えれば毎日幸せでいたい気持ちも勿論あります)

 精神的な苦痛を乗り越えて時代を超えた作品や言葉を残した人物には、ニーチェやキェルケゴール、ムンクやゴッホ、太宰治、宮沢賢治、中原中也など、挙げればキリがありません。同じ時代を生きた大好きな人たちの中にも、蜉蝣の大佑さん、Pay money To my PainのK君、LinkinParkのChesterなど、精神的苦痛や病と引き換えにこの世を去ってしまった人たちがいます。

 そうした人たちの作品を真に理解する意味でも、そして理解した上で「生き続ける」という選択肢をする上でも、今風に言うと常にコンフォートゾーンから抜け出しながら、死の淵で「天よ我に百難を与えよ」と言い放った曹操のように、生きていたいと強く思います。4年前にnoteで「死んでたまるか。」と言う言葉を残しました。これはストレスを避け、精神的な安定を保ち続けるという目的ではなく、ありとあらゆる苦痛を生きている間経験しながらも、それを克服し続けることで、「スティグマのない社会」を本気で見てみたいと、その景色が見られると信じているからです。

 最後に。

 私たちが直面する数々の試練や苦痛は、人生の価値や意味を深く探求するためのステージであり、機会にもなり得る。それらを克服することで、私たちは自らの存在の意味を再定義し、他者とのつながりや社会の中での役割を見つけることもできる。真に価値ある人生を敢えて定義するとすれば、常に挑戦し、時には痛みを感じることで得られるものを好んで享受し、その中で我々は真の自己を発見し、社会における「スティグマ」を乗り越える力を持つことができる。私たち(同志がいれば嬉しい)が望む「スティグマのない社会」への道は、個人の痛みや試練を乗り越える過程を通じて築かれるものであり、そのために絶えず挑戦し続ける必要がある。

明日と明後日で考える基準を変え続け、
格好悪いことはせず、
常にロドスで跳べるように。

発酵が進んできた自分なりの文脈



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