共感を意識する前に共鳴している。
誰かが「生き永らえてみたい」と思える瞬間を。
生半可に「共感した!」とか言う共感野郎にはなりたくないので、共感という言葉を避けていると、偶にそれを超えて「共鳴」できる瞬間があります。文章に触れた瞬間、こうしてnoteを書いて感情を記録したい、と行動が促されているので、既に何か共鳴が起きていると思う朝。
株式会社rn press。野口 理恵さん。この記事を読後すぐに「USO」を5冊、買いました。次はどんな文章に触れられるか、ドキドキしています。これから届く文章にドキドキする感覚は、数年ぶりです。
小説やドラマに出てくる家族像、勿論ゲットーを描いたようなものもありつつ、その大半はまさに「像」もはや「虚像」と呼ばれるようなものになりつつある時代かもしれません。唯、普段仕事で優秀な人に囲まれていると、学習環境も十分にあり大学まで進んでいながらも「私も家庭がこんなに大変で…昔はこんな挫折をして…」と言われても、正直何も感じないくらい、まさに「家族像」を生きている人たちに会うことがあります。(勿論、感情の辛さは相対的なものではなく絶対的なものなので、アイスを落とした時に泣き喚く子どもと、アイスを落としても落ち込むくらいの大人、のような差もあります。それには常に寄り添いたい。)
当たり前のように進学し、当たり前のように虐待も受けず、当たり前のようにご飯が出てくる。当たり前のように貧しさを感じず、当たり前のように勉強をする時間があり、当たり前のように五体満足で健康で、当たり前のように「家族旅行」を知っている。そんな人たちの挫折や苦労話を聞いていると、鉄塔から飛び降り未遂をした小学生の頃の自分が蘇ってきて、「おうちを交換してほしい」と涙ながらに訴えてくることがあります。
唯、私は家族に恵まれていると今でも思うし、家族は大好きです。それは家族が自分も含め何だかんだ生き永らえているし、突然変異ではないけれど、少しずつ変化して「家族」の形を保っているからかもしれません。ただ一番の理由は自分が小さい頃と、高校生の頃に「死」を感じさせてくれて、自分がそれを乗り越えたのか逃げたのか今やわからないけれど、心に刻み込んでくれた環境に感謝しているのだと思います。小さい頃に「死んだらどうなるんだろう」は誰でも考えることかも知れませんが、「生きていたらどうなってしまうんだろう」と考えることは幼少期には貴重な経験だと思っています。
これはまさに、自分も向き合い続けていたところで、「鉄塔で飛び降りようとしない小学生」を育てられるだけの人間性と財力と余白を持ち続けられる人間なのか、日々自問しながら、それでも前に進もうとしています。うまくつくれないなりに、できる限りのことは怠らず生きていたい。
学歴がない親の元で突然生まれた"田舎のできる子"が抱える悩みは共通するものが多い気がします。そこには反骨心やハングリーさ、色々なものがあり、 " 海外留学しました。親のお金で。" と当たり前のように言う" 東京育ち "の人とは違うものがあります。どちらが良いのでも悪いのでもありません。親が子どもに目一杯機会を与えようとしてくれるのは自然でもあり、それ自体が凄く恵まれていることで、その手段はなんだって良いと思います。ただそれが「毒親」や「中卒の親」でラベリングされると腹立たしいし、" 東京育ち "でラベリングされる人だってきっと腹立たしい。そして、「毒親」だとしても、その背景にまで思考を巡らせる必要性を感じます。
分人主義さながら、コスプレをしなければ生きていけないこともあります。コスプレをすることが救いになることもあれば、擦り減っていくこともあり、環境やタイミングも大切です。適切なコスプレをする、しないの判断ができるようになるまで、内省をし続けられる人がどれ程いるのだろうかと、コーチングの仕事をしているとよく感じることです。
中途半端な同情は勿論、中途半端な共感もクソ喰らえと思う瞬間があります。(言葉にすると棘だらけですが、共感や同情は本当に人を殺すことがありますよね。)「おもしろい」という言葉に出会えたこのエピソードにグッとくるものがありました。私にもその言葉がきっと受け入れられない時代はあったけれど、会うべき時に「おもしろい」と言ってくれる人に会うと、救われることもある。生きてさえいれば、です。
V・E・フランクル先生の人生を「おもしろい」と面を向かって言えるようになれる程、これからも様々なものに触れて、経験を重ねていこうと思います。
小学生の頃の自分は死に直面した後、吉川英治の三国志、ニーチェ、キェルケゴール、太宰治、ドストエフスキーに助けられてきました。もう少し大人になってからもずっと、ずっと色んな本が私を助けてくれています。その先に編集者の人がいたことを常に想像しきれていなかった不甲斐なさも覚えつつ、本は社会を変える力があります。少なくとも、これまではそうで、私は本のお陰で、今も生き永らえているのです。
以前、noteの中で下記のようなことを書きました。
野口さんの言う「綿菓子のような人」は、私が言う「ソーシャルアントレプレナーシップ」とは恐らく違うし、その人たちにも信念があって、リスペクトするところは沢山あります。唯、「当たり前のような家族旅行」を経験した人が「当たり前のように虐待され続ける」人に本当に寄り添えるのか?それをビジネスという間接武器で解決しようと本気で思っているなら、どこまで覚悟があるのか?精神障害を「メンタルの強い/弱い」程度のリテラシーで判断したり、そもそも病棟を見たりしたことのない人が「障害」と本当に向き合えるのか?いつも自戒も含めて問い続けてしまいます。そして問い続けることがどれ程しんどくても、余白がある限り、必要なプロセスだと思うのです。本気なら。
だからこそ、何度折れても「生き永らえ続ける限り」必要な経験をください。と、日々努めながらも祈る日々。必要な経験、を敢えて明示はしませんが、それらは時に本が与えてくれることもあるのです。
株式会社rn press
野口 理恵さんへ。
凄い記事に出会いました。これからUSOをはじめとする本を読んで、必要な経験を、本という手段で少しずつ、感じられる気がします。まだ野口さんが編集した本を読んでいない中(年に数百読む中でもし偶然触れていたら凄く嬉しい!)ですが、「ここまで生き永らえていてくださって、ありがとうございます!」という気持ちに勝手に、本当に勝手にですが、なりました。
今朝この記事を読んで、こうして文章を書いている自分も、誰かが「生き永らえてみたい」と思える瞬間をつくっていこうと、改めて。幾ら「こんな最低な愛せない世の中で!」と思っていたとしても。
野口さんの記事を一通り読んだ後に、タイトルが「生きる力が湧いてくる」だったことに気づき、ああ、まさに生きる力はここにある、と感じた記録。
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